無料ブログはココログ

与謝野晶子歌碑(總持寺)

 神奈川県川崎市鶴見の總持寺の境内にある与謝野晶子歌碑を解読してみました。

与謝野晶子歌碑(總持寺)

 おっと、私の姿が碑面に映り込んでしまいましたわ。いかんいかん。
 それはともかく、碑文の解読結果をどうぞ。

【碑文】
(表)
[晶子印]
胸なりて
われ踏みがたし氷より
すめる 大雄宝殿の末
  晶子総持寺を詠める 与謝野馨書[与謝野馨印]

(裏)
大本山總持寺御移転百年記念
 与謝野晶子歌碑建立
 揮毫 国務大臣 与謝野馨

 寄進 株式会社いせや
    株式会社内藤石材店
    株式会社松原石材店
    須藤石材株式会社
 平成廿三年七月吉日
 独住第廿五世江川辰三代

 平成の御代の石碑なので、現代語訳の必要はありますまい。ただ、若干の解説を述べさせていただきます。
 歌に出てくる大雄宝殿は總持寺境内にある建物で、石碑の建っているところからその雄姿を眺めることができます。
 それから、この石碑の記号をした与謝野馨は財務大臣などを歴任した政治家で、与謝野晶子の孫。この石碑が建立された平成23年(2011年)7月には内閣府特命担当大臣でした。
 ちなみに私は以前、彼の著書『堂々たる政治』を当ブログにてレビューしたことがあります。

殉難船員之碑(總持寺)

 神奈川県川崎市鶴見の總持寺の境内にある、殉難船員之碑を解読してみました。
 漢文です。しかも長い。そのせいかあらぬか現代語訳の作業は難渋し、正直言って正確に訳せていない部分が幾つかあります。私の漢文読解力もまだまだといったところか。

殉難船員之碑(總持寺)

【碑文】
殉難船員之碑
    元勲海軍大将従二位大勲位功一級伯爵東郷平八郎題額
大正三年八月独国宣戦于露仏也英国助援露仏欧洲全土化為戦乱
之区我国亦拠日英同盟之誼伐独人于青島而攘之於是独国頻発艦
艇犯公法撃沈列国商船従地中海亙印度洋大西洋尤極跳梁暴虐焉
吾社船罹其毒手者五艘大正四年十二月二十一日八阪丸被撃沈於
地中海六年五月三十一日宮崎丸被撃沈於英国海峡其年九月二十
六日常陸丸為敵艦拿捕於印度洋十一月七日遂被撃沈越七年八月
二日徳山丸於紐育海其年十月四日平野丸於愛蘭海皆被撃沈而八
阪徳山二船不損人命宮崎常陸平野三船別船客及船員中死傷甚多
洵為極悲酸之事其船員皆為国家及與国冒危険執其職終殉之其忠
勇宣伝不朽茲建石録其姓名于碑陰以記後世永表英烈云爾
   大正八年十月
     日本郵船株式会社社長従四位勲二等男爵近藤廉平撰
     内大臣秘書官正五位勲三等      日高秩父書

【読み下し文】
殉難船員の碑
    元勲海軍大将従二位大勲位功一級伯爵東郷平八郎題額
大正三年八月、独国露仏に宣戦するなり。英国露仏に助援して欧洲全土戦乱の区となる。我が国もまた日英同盟の誼(よしみ)によりて独人を青島に伐ち、これを攘う。ここにおいて独国艦艇を頻りに発し、公法を犯して列国の商船を地中海より印度洋、大西洋にわたり撃沈す。もっとも極めて跳梁し暴虐なり。吾が社の船その毒手に罹りたるは五艘。大正四年十二月二十一日、八阪丸地中海において撃沈さる。六年五月三十一日、宮崎丸英国海峡において撃沈さる。その年九月二十六日、常陸丸印度洋において敵艦の拿捕するところとなり、十一月七日遂に撃沈さる。越七年八月二日、徳山丸紐育海において、その年十月四日、平野丸愛蘭海において皆撃沈さる。しかるに八阪徳山二船は人命を損ぜず、宮崎常陸平野三船は別に船客及び船員中死傷者甚だ多し。まことに極く悲酸(※1)の事たり。その船員皆国家及び国の為に危険を冒し、その職を執り、ついにこれに殉ずる。その忠勇の宣伝不朽、ここに石を建ててその姓名を碑陰に録す。もって記し後世に永く英烈(※2)を表しここに云う。
   大正八年十月
     日本郵船株式会社社長従四位勲二等男爵近藤廉平撰
     内大臣秘書官正五位勲三等      日高秩父書

※1.悲しくいたましい。
※2.すぐれた事業。

【拙訳】
殉難船員の碑
    元勲海軍大将従二位大勲位功一級伯爵東郷平八郎、扁額を記す。
 大正3年8月、ドイツがロシアとフランスに宣戦布告した。イギリスはロシアとフランスに援助して欧州全土が戦乱の区域となった。我が国もまた、日英同盟の友好によってドイツ人を青島(チンタオ)で攻撃し、これを追い払った。
 ここでドイツは軍艦を頻繁に出撃させ、国際法を破って各国の商船を地中海からインド洋、大西洋にわたって撃沈した。まったくもって暴虐の極みである。我が社(日本郵船)の船で、その毒牙にかかったのは5艘である。
 大正4年12月21日、八阪丸が地中海で撃沈された。(大正)6年5月31日、宮崎丸がイギリス海峡で撃沈された。その年の9月26日、常陸丸がインド洋で敵艦に拿捕され、11月7日、ついに撃沈された。翌7年8月2日、徳山丸がニューヨーク海で、その年の10月4日、平野丸がアイルランド海で全て撃沈された。
 そして八阪丸・徳山丸の二船は人命が失われなかったが、宮崎丸・常陸丸・平野丸の三船は(先述の二船と)違って船客と船員の死傷者がとても多かった。本当にとても悲しくいたましいことである。
 その船員は皆、国家と国の為に危険を冒し、その職を全うし、最後は殉職したのである。その忠義と勇敢さを宣伝し、これを不朽のものとするため、ここに石碑を建ててその名前を石碑の裏に記録する。こうして記し、後世に永く、すぐれた事業を表彰して、ここに言う。
    大正8年10月
       日本郵船株式会社社長従四位勲二等男爵近藤廉平作る。
       内大臣秘書官正五位勲三等      日高秩父書く。

 第一次世界大戦に巻き込まれて死んだ、日本郵船の船員を悼み、彼らを顕彰する石碑です。石碑の裏面には人命を書き連ね、「大正八年十月 日本郵船株式会社建之」とあります。
 それにしても、こんなところで東郷平八郎の名前に出会うとは思いませんでしたわ。東郷平八郎は日露戦争で活躍した人というイメージが強いからです。

日露戦役紀念の碑(氷川神社)

 東京都杉並区高円寺南の氷川神社にある石碑を解読してみました。

日露戦役紀念の碑(氷川神社)

【碑文】
(表)
日露戦役紀念
   出征軍人
故 上野長吉    斎藤光三郎
故 上野富五郎   村田■次郎
  村田利三郎   榎本杢次郎
  伊藤福五郎   大河原■助
  小永井熊蔵   村田瀧■
  村田兼三郎   斎藤徳次郎
  村田清介    伊藤伊三郎
  大河原房次郎  上野主吉
  上野藤吉    斎藤治郎右エ門
  小永井磯吉   大谷林■
    明治三十九年四月十五日
           当村原中

(裏)
明治二十七八年日清戦役出征軍人
故 上野兼吉
  村田利三郎
  伊藤福五郎
  小永井熊蔵
  村田兼三郎

※■は解読に失敗。

 石碑の表側には日露戦争に出征した兵士、そして裏側には日清戦争に出征した兵士の名前を連ねて、郷土の勇士たちを顕彰しています。
 それから、時系列では日清戦争の後で日露戦争が起こるのですが、こちらの石碑ではどうやら表側の「日露戦役紀念」が先に刻まれて、裏側はその後に刻まれたようです。愚考するにその根拠は以下の通り。

(1)表側の題字は凝った装飾文字であるのに対し、裏側にはその種のデザインは全くない。
(2)表側の碑文は石碑の板面を存分に使っているのに対し、裏側は余白が多い。

感戴碑(江島神社)

 江の島の江島神社境内にある、この石碑を解読してみました。

感戴碑(江島神社)

【碑文】
感戴碑
明神降鑑衆生福智
   安岡正篤撰及書

(裏)
昭和四十二年五月吉日
    中川懐春発願
    茅ヶ崎
    宮田工業株式会社建立

 タイトルの「感戴」は、ありがたくおしいただくこと。何をおしいただくのかというと、その次の「明神降鑑衆生福智」の部分だと思われます。
 それから、碑文の「鑑」の字について少々。石碑に刻まれた当該部分の文字を手許の漢和辞典で調べてみると、鑑の別字とありました。ですので、ここでは鑑の字を用いることにします。(※オリジナルの文字は環境依存文字)
 次に、人名と会社名について。安岡正篤(まさひろ)は陽明学者で、中川懐春は中川機械の社長。宮田工業株式会社は現・モリタ宮田工業株式会社で、消火器を作っているところです。
 碑文をざっと読む限りでは、「ここに石碑を建てよう」と言い出したのが財界人・中川懐春で、それに応えて揮毫したのが学者・安岡正篤、そして資金を出したのが宮田工業といったところでしょうか。
 では明神とは誰か? そもそもこの石碑が建っているのが江島神社であることから、その祭神である弁財天を刺す、と見ることができます。あるいは、ここで特に誰とは指定していないので、弁財天を含む明神一般、という解釈もできます。
 で、その明神が天から地上に降りてきて、人々の幸福と智識・智恵をご覧になってよくよく考えて下さる、ということですな。

乃木講誓詞之碑(乃木神社)

 東京都港区赤坂の乃木神社の境内に、乃木講誓詞之碑なるものがあります。今回はこれを解読してみました。

【碑文】
乃木講誓詞之碑

乃木講総代
陸軍大将従二位勲一等功二級大庭二郎書并題額

聖訓力行 我身を浄め
質素勤倹 我家を治め
献身奉仕 国産を興し
熟慮断行 正義を践(ふ)み
至誠一貫 皇基を護らむ

昭和七年九月
乃木講建之

 続いて現代語訳をどうぞ。

【拙訳】
乃木講誓詞の碑
乃木講総代・陸軍大将(従二位勲一等功二級)大庭二郎、(これを)書いて扁額に記す。

聖人の教えを精力的に実行して 自分の身を清浄にし
質素に倹約してよく働き 自分の家を運営し
献身的に奉仕して 国家の産業を興隆させ
熟慮の上で断行して 正義を行い
一貫して誠心誠意をもって 皇国の基礎を護るぞ

昭和7年9月
乃木講これを建てる。

 まず最初にツッコミどころを一つ。書いた人(大庭二郎)の肩書きが長い。自慢したい気持ちはわからないではないが、あまりに長いので文字の間隔が狭くなって読みにくくなっています。特に大庭二郎の「二」なんかは窮屈そうですぞ。肩書きは乃木講総代くらいにとどめておくか、せいぜいそれに陸軍大将を加えるくらいでいいんじゃないでしょうか。
 それから、碑文の「聖訓」には天皇の詔勅の意味もあるらしい。大日本帝国憲法によれば天皇は神聖にしておかすべからず、とありますからね。
 最後に、この碑が建てられた昭和7年について少々。昭和7年に何が起こったかというと、第一次上海事変、血盟団事件、五・一五事件と、なかなか物騒なことになっています。まあ、この後もっとひどくなるのですが、それについて語り出すとキリがないのでここでは控えておきます。

乃木講誓詞之碑(乃木神社)

竹添井々文学碑(乃木神社)

 東京都港区赤坂の乃木神社の境内に、竹添井々文学碑なるものがあります。今回はこれを解読してみました。

【碑文】
竹添井々文学碑
   竹添井々略歴
 竹添進一郎、光鴻号は井々、天保十三年天草郡大矢野島に生る。出熊木下●(韋扁に華)村の門に学び、時習館居寮生となる。幕末戊申(※)の役には肥後藩の参謀。時習館訓導助勤後、明治五年から七年まで天名郡伊倉村に開塾。上京仕官、詩文の才を認められ朝鮮公使、東京帝大教授となる。棧雲峡雨日記、論語会箋、春秋左氏会箋等の著述多し。文学博士、大正六年歿七十六歳墓は東京小石川の護国寺

※戊辰の誤り。

 続いて現代語訳をどうぞ。

【拙訳】
竹添井々文学碑
   竹添井々の略歴
 竹添進一郎、光鴻。号は井々(せいせい)。天保13年(1842年)天草郡大矢野島に生まれる。熊本に出て木下●(韋扁に華)村(いそん)の門下で学び、時習館の寮生となる。幕末の戊辰戦争では肥後藩の参謀を務める。時習館で指導の助勤を務めた後、明治5年から7年(1872~74年)まで天名郡伊倉村に塾を開く。上京して仕官し、詩文の才を認められて朝鮮公使、東京帝大教授となる。『棧雲峡雨日記』『論語会箋』『春秋左氏会箋』など著作多数。文学博士、大正6年(1917年)没。享年76歳。墓は東京小石川の護国寺にある。

 竹添井々は明治の外交官・漢学者。
 碑文に「詩文の才を認められ」とありますが、この詩文とは漢詩漢文のことと思われます。李氏朝鮮との外交交渉で必要だったというわけですな。
 してみると、この文学碑の文学とは漢文学のことか。漢文学というと、私なんかは『山海経』や『三国志演義』、『水滸伝』などが思い浮かびます。
 それから、彼の墓があるという護国寺は、手元の地図で調べてみると、乃木神社から北の東京都文京区大塚にあります。墓が護国寺のどこにあるのかまでは知りませんが、護国寺には私も何度かお参りしたことがあります。あそこは乃木神社よりも広い。広々としています。

竹添井々文学碑(乃木神社)

『今、あらためて知りたい土方歳三人気の理由』日野市

 土方歳三没後150年を記念して、彼の出身地である日野市が発行した小冊子。NHK大河ドラマで土方歳三を演じた山本耕史さんのインタビュー(P2-3)などを掲載。
 さて、タイトルにある「人気の理由」についてですが、本誌の中で箇条書きなどのわかりやすい形で明示してあるわけではありません。そこは各自が本誌を読んだ上で考えてみて下さい、ということなのかもしれません。
 そんなわけで、人気の理由の一つと思われる部分を発見したので、ここに引用しておきます。

KEYWORD4 モテ伝説
写真の通りイケメンだった歳三は、女性にモテモテ。「モテ自慢」するおちゃめな一面も?自分に思いを寄せる京都の芸妓の名前を書き連ね「モテすぎて困る」と記した、歳三のものとされる手紙が、東京・町田市の小島資料館に残っています。(P5)

 なるほど、イケメンか。

今、あらためて知りたい土方歳三人気の理由

【新撰組関連記事】
燃えよ剣(1966年)
菊地明『新選組 粛清の組織論』文藝春秋

勝海舟夫妻墓の傍の石碑

 東京都大田区の洗足池の畔に勝海舟夫妻の墓が建っているのですが、その傍には江戸無血開城を顕彰する石碑が建立されています。

勝海舟夫妻墓の傍の石碑

 今回私は、この石碑を解読してみました。尚、引用に際しては旧字体を新字体に変えるなど、一部表記を改めました。

慶応三年十二月 王政古ニ復シ翌明治元年二月大総督熾仁親王(※1)勅ヲ奉シ 錦旗東征セラレ三月十五日ヲ期シテ江戸城ヲ攻メシム城兵決死一戦セントシ兵火将ニ全都ニ及ハントス時ニ勝安芳(※2)幕府ノ陸軍総裁タリ時勢ヲ明察シテ幕議ヲ帰一セシメ十四日大総督府参謀西郷隆盛ト高輪ノ薩藩邸ニ会商シテ開城ノ議ヲ決シ四月十一日江戸城ノ授受ヲ了セリ都下八百八街数十萬 生霊(※3)因テ兵禍ヲ免ガレ江戸ハ東京ト改称セラレテ 車駕此ニ幸シ(※4)爾来 三朝(※5)ノ帝都トシテ殷盛比ナシ是レ一ニ隆盛安芳ノ両雄互ニ胸襟ヲ披キテ邦家百年ノ大計ヲ定メタルノ賜ナリ今ヤ東亜大有為ノ秋(※6)ニ方リ当年両雄ノ心事高潔ニシテ識見卓抜ナリシヲ追慕シ景仰(※7)ノ情切ナリ茲ニ奠都(※8)七十年ニ際シ両雄 英績ヲ貞石(※9)ニ勒シテ之ヲ顕彰シ永ク後昆(※10)ニ伝フ
   昭和十四年四月
     東京市長従三位勲一等小橋一太謹識

※1.有栖川宮熾仁親王。
※2.勝海舟。安房守だったので勝安房ともいう。
※3.人民。
※4.誰の車駕かは書いてないが、「幸」(みゆき)の字を用いていることから天皇とわかる。
※5.明治・大正・昭和。
※6.後述。
※7.徳を仰ぎ慕う。
※8.都を定める。
※9.堅い石。
※10.後の世の人々。

 続いて現代語訳をどうぞ。

【拙訳】
 慶応三年十二月、王政復古となり、翌明治元年二月に大総督・有栖川宮熾仁親王は勅命を奉じ、錦の御旗を掲げて東征され、三月十五日に江戸城を攻めることにした。江戸城の兵らは決死の覚悟で戦おうとしていて、戦火は今まさに江戸中に広がろうとしていた。
 その時、勝海舟は幕府の陸軍総裁だった。彼は時勢が官軍にあると見抜いて幕府内の意見を集約し、十四日に大総督府参謀・西郷隆盛と高輪の薩摩藩邸で会合して開城の合意をし、四月十一日に江戸城の受け渡しが完了した。
 城下の八百八町、数十万の人民は、これにより戦禍を免れ、江戸は東京と改称され、天皇がこの地に行幸され、それ以来、三代に渡って首都としてかつてないほど繁栄した。これは一つに、隆盛と海舟の両雄が互いに胸襟を開いて国家百年の大計を定めてくれたおかげである。
 今、東アジアは大変な時期を迎えている。両雄の心が高潔で見識がとても優れていたことを追慕し、その徳を切に仰ぎ慕う。ここに遷都七十周年に際し、両雄の優れた功績を堅い石に刻んでこれを顕彰し、長く後の世の人々に伝える。
   昭和十四年四月
    東京市長従三位勲一等小橋一太謹んで記す

 さて、銘文の中に「今ヤ東亜大有為ノ秋(とき)」とありますが、これは一体どういうことでしょうか? 碑文には「昭和十四年四月」とありますが、この時期は日中戦争の真っ最中であり、「東亜大有為」とは日中戦争を指すものと思われます。だとすると、この顕彰は戦時プロパガンダ臭がしますな。もちろん、こんなプロパガンダがあろうとなかろうと、江戸無血開城の英断は評価されて然るべきです。
 ところで、昭和14年を西暦に換算すると、1939年。ここで私はピンと来ましたよ、この年の9月に第二次世界大戦が勃発したんだと。こうなるともう、無血開城なんてハナシどころじゃなくなってきます。

落合信彦『モサド、その真実 世界最強のイスラエル諜報機関』集英社(3)

 本書の第一章ではイサー・ハレル(元モサド長官)、第二章ではメイアー・アミット(同じく元モサド長官)にインタビューしていますが、第三章では趣向を変えて、自由レバノン軍の指導者サード・ハダッド少佐にインタビューしています。
 これはこれで興味を引くところはあるのですが、今回の一連の書評ではスパイについて取り上げたいと思っているので省略。

 というわけで、第三章は飛ばして第四章を取り上げます。第四章ではエジプトに潜伏していた元スパイ、ウルフガング・ロッツが登場。ハレルとアミットが指揮官・司令官クラスだったのに対して、ロッツは現場の最前線で働いていた人物です。
 ところで、スパイが他の身分になりすますことをカバーというのですが、そのカバーに失敗している例としてこんな人物が取り上げられています。

ドイツ人でゲアハルト・バウハという名だったが、彼はあるドイツの大企業の総支配人としてエジプトに駐在していた。私は初めから彼がおかしいと感じていた。ピラミッド・ガーデン市のデラックスな館に住み、金は使い放題だがいつも仕事をしている様子はない。カイロのダウンタウンにオフィスさえもないのだ。自宅の書斎をオフィスとして使っているという。ドイツのコンツェルンの総支配人にしてはビジネス感覚もあまりありそうにない。(P195-196)

 見事な観察と推理です。大金持ちの道楽者なら仕事しないで金は使い放題なのかもしれませんが、大企業の総支配人ならまず仕事をしなきゃならない。金の使い道だって、まともな企業なら監査のチェックが入りますからね。
 つまり、こんな奴がいたらそいつはスパイだぞ、とロッツは教えてくれているわけです。
 ちなみにロッツはどんなカバーをしていたかというと、元SS(ナチス親衛隊)将校という、ユダヤ人とは正反対の存在になりすましていました。こいつはすさまじい。

【参考文献】
落合信彦『モサド、その真実 世界最強のイスラエル諜報機関』集英社

【目次】
『モサド、その真実 世界最強のイスラエル諜報機関』(1)
『モサド、その真実 世界最強のイスラエル諜報機関』(2)
『モサド、その真実 世界最強のイスラエル諜報機関』(3)

【スパイ映画】
スパイ・ハード
007 スカイフォール
007 スペクター
デュプリシティ スパイは、スパイに嘘をつく
陸軍中野学校
陸軍中野学校 雲一号指令

落合信彦『モサド、その真実 世界最強のイスラエル諜報機関』集英社(2)

 本書でイサー・ハレルに続いてインタビューを受けたのは、メイアー・アミット。ハレルがモサド長官を辞任した後、長官職を引き継いだ人物です。
 さて、インタビューを読むと、アミットもハレルと同様、秘密主義があります。例えば1981年にイスラエルがイラクの原子炉を爆撃した件(通称、バビロン作戦。もちろんモサドも深く関わっている)に触れながらこんなことを述べています。

 あのイラクでのオペレーションだけに限らず近頃モサドに関してはあまりにあちこちで語られすぎている。しかも単なる興味本位でしか取り上げない。その一語一語がモサドを傷付け、イスラエルを危険に陥れているということに全く気付いていない。(P99)

 だとすると、この書評記事もモサドを傷付けることになるのでしょうか? いやいや、当ブログの社会的影響力の小ささとモサドの強固さを考えれば、これでモサドが傷付くなんてありえないでしょうな。
 尚、モサドについて多く語られるというのは、成功・失敗いかんを問わずモサドがそれだけ「仕事」をして人々の目に着いたからだという側面もあります。例えばアドルフ・アイヒマン生け捕り(※)なんてことをしたら、そりゃあ世界中が注目しますよ。

※アイヒマンを捕まえるくだりは本書第一章にて詳述されている。指揮を執ったのはアミットの前任者ハレル。

【参考文献】
落合信彦『モサド、その真実 世界最強のイスラエル諜報機関』集英社

【目次】
『モサド、その真実 世界最強のイスラエル諜報機関』(1)
『モサド、その真実 世界最強のイスラエル諜報機関』(2)
『モサド、その真実 世界最強のイスラエル諜報機関』(3)

【スパイ映画】
スパイ・ハード
007 スカイフォール
007 スペクター
デュプリシティ スパイは、スパイに嘘をつく
陸軍中野学校
陸軍中野学校 雲一号指令

より以前の記事一覧

2020年3月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31