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中国同盟会発祥の地碑(オークラプレステージタワー)

 東京都港区のオークラプレステージタワーにある、中国同盟会発祥の地碑を解読してみました。

中国同盟会発祥の地碑

【碑文】
中国同盟会発祥の地

(傍の碑)
建立 株式会社ホテルオークラ
協賛 中央建物株式会社
   大成建設株式会社
   公益財団法人大倉文化財団
監修 公益財団法人孫中山記念会
 
     2019年(令和元年)8月吉日

 この他にも銘板があって、そこに日本語と中国語(繁体字)で建立の経緯が書かれていました。日本語の文章を引用します。

1905年8月20日大倉喜八郎邸すなわち此地、現ホテルオークラにおいて、孫文を総理とする中国同盟会が結成された。その後、中国同盟会が母体となった辛亥革命により、1912年、アジア史上初の共和国家、中華民国が誕生した。その意義を称え、同時に末永い日中友好を期して記念碑を建立する。

 中国語の文章は上記の文章と同じ意味だった(と思う)ので省略。ただ、違いがあるとすれば、孫文を孫中山と表記していたことくらいです。
 とすると、公益財団法人孫中山記念会の孫中山とは孫文のことか。ちなみに中山は孫文の号。

旧港区立鞆絵小学校跡の碑(みなと科学館)

 東京都港区のみなと科学館にある、旧港区立鞆絵(ともえ)小学校跡の碑を解読してみました。

旧港区立鞆絵小学校跡の碑

【碑文】
(表)
仮小学第一校
(鞆)
明治3年6月12日
 
港区立鞆絵小学校
  校舎跡

(裏)
 鞆絵小学校沿革略史
明治三年六月十二日 東京府は芝増上寺境内源流院を仮校舎とし、仮小学第一校を開校する
  四年十二月四日 文部省直轄となり、小学第一校と改称、芝西久保巴町四十五に移転する
(※中略)
昭和四十六年十月二十五日 鞆絵の歴史と伝統を誇りとする人々によってこの碑を建てる
平成三年三月三十一日 閉校

 裏面の碑文は文字の部分を白く塗って読みやすくしているのですが、最後の行「平成三年三月三十一日 閉校」だけは色が塗られていませんでした。又、その直前の行に「この碑を建てる」とあることから、最後の行だけは後から追記されたものと思われます。
 それから、昭和46年(1971年)と平成3年(1991年)とでは随分と間が開いていますが、それだけに閉校したことは何としてでも書いておかねばという気概を感じます。

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武田静澄著『日本の伝説の旅(下)』社会思想研究会出版部(4)安徳天皇の生存伝説

 壇の浦の戦いで入水した安徳天皇が、実は生きていた…という伝説が四国にあります。本書に2つ載っていたので両方を引用します。

 安徳天皇をはじめ平家一門のものが、壇の浦に入水したと見せかけて源氏をあざむいて四国にのがれ、阿波の祖谷山から土佐御在所山(香美郡在所村・土讃本線土佐山田駅)に、さらに本川村稲村山、のち横倉山に移られたといいつたえている。横倉山は陵墓伝説地となっている。(P173)

 天皇は平国盛をともにつれて、讃岐の志度の浦から阿波の大山をこえ、祖谷山へ落ちてこられたという伝説がある。東祖谷の大枝で年こしをしたが、正月の飾りにする松がないので、カシの木を門松にたてた。天皇は、その後五年をへて、栗枝渡でなくなられた。(P190)

 上記2つの逃亡ルートは多少の食い違いがあるかもしれませんが、伝説なんてそんなものだと思った方がいい。
 それにしても、逃亡ルートは山また山。山の中を移動し続けています。海上ルートや街道筋は敵方(源氏)に押さえられていたのだろうと想像します。

【参考文献】
武田静澄著『日本の伝説の旅(下)』社会思想研究会出版部

武田静澄著『日本の伝説の旅(下)』社会思想研究会出版部(3)源範頼の生存伝説

 源義経は実は生きて脱出した、という話はあまりに有名ですが、兄の源範頼にもそんな話がありました。

 範頼は義朝の六子で、母が遠江<とおとうみ>池田宿の遊女で蒲の冠者とよばれていたので、範頼もまた蒲の冠者を名のった。兄頼朝のために修善寺の塔頭<たっちゅう>信功院にとじこめられ、建久四年(一一九三)八月、梶原景時の来襲をうけて火をはなって死んだとあるが、ほんとうはひそかにのがれて、霊石山の最勝寺にひそみ、僧となって教頼法師とあらためて、この寺で没したといわれている。(P144)

 修善寺は静岡県、霊石山の最勝寺は鳥取県にあります。
 それにしても、源平の合戦において範頼は義経に較べてあまりパッとしませんでしたが、こちらの伝説においてもあまりパッとしません。正直言って地味です。
 それから「教頼」という名前を訓読みすると「のりより」になることに気付きました。これは範頼の読みと一緒です。
 愚考するに、教頼という僧が実際にいて、名前を訓読みにすると「のりより」になることから、「あれは実は源範頼だ」と噂する者がいたのでしょう。教頼法師にとっては迷惑な話ですな。

【参考文献】
武田静澄著『日本の伝説の旅(下)』社会思想研究会出版部

武田静澄著『日本の伝説の旅(上)』社会思想研究会出版部(8)楊貴妃の墓

 愛知県の熱田神宮に、かつて楊貴妃の墓があったことが書かれています。

 尾張の熱田(名古屋市熱田区新宮坂町熱田神宮・東海道本線熱田駅の西南約三〇〇メートル)では、「楊貴妃<ようきひ>」の謡<うたい>をうたうことが禁じられている。これはもとこの境内に蓬來宮<ほうらいくう>といって、楊貴妃(唐の玄宗のきさきで、安禄山の反乱によって追われ、その反乱の原因は楊貴妃にあるとして、のちに殺された)の墓があったからであった。中国の美妃の墓が日本にあるというのもおかしな話である。(P219)

 楊貴妃についての説明は引用文中にて簡単に述べられているので、ここでは繰り返しません。
 それから著者は楊貴妃の墓が日本にあるのは「おかしな話である」と述べていますが、世の中にはもっとおかしな話があるもので、なんと青森県にはイエス・キリストの墓があるのです! とまあ与太話はさておくとして、私は八百屋お七や丸橋忠弥の墓を見たことがあるのですが、いずれも当人の死後すぐに葬ったところというより、後の時代になって「有志」が建てたものといったところです。従って、楊貴妃の墓もそれらと同類なのではないかと思ってしまいます。
 ちなみに本書には、楊貴妃の墓がその地にある理由として、以下の伝説を紹介しています。

 玄宗は東方の楽土を攻めとる夢をもっていたので、熱田の神は東征の野望をくじくために、楊貴妃という傾国の美姫をつかって、年来のこころざしを捨てさせた。(P252)

 引用文中の「東方の楽土」とは日本のことだと思われます。又、唐王朝は中国の歴代王朝の例に漏れず周辺諸国への外征をやっているし、日本とも戦っています(白村江の戦い)。だから、日本征服の可否はともかくとして、唐の皇帝がそのような野望を抱いていると日本が警戒するのはおかしくありません。
 それにしても、熱田の神がハニートラップを仕掛けたというのですか。古典風に言うなら美人計で、これは相手国の君主を美女に溺れさせて衰えさせるというものです。愛欲に溺れれば単純に肉体が衰えるし、政務がおろそかになって国が乱れるもととなります。楊貴妃の場合は絶大な効果を発揮し、安禄山の乱が起こって唐は内戦状態に陥ります。こうなるともう、外征どころじゃない。

 皇帝は蜀<しょく>の国にのがれたが、楊貴妃は捕らえられて馬巍ガ原<ばかいがはら>で殺された。その魂は東方の楽土にとんできて住んだ。しかし、その地が熱田であった。(P252-253)

 楊貴妃は役目を果たしたので、プロデューサーである熱田の神のもとへ戻ってきた。そして熱田神宮では彼女のために立派な墓を建ててその功績に報いた、と。ほんとかよ。

【参考文献】
武田静澄著『日本の伝説の旅(上)』社会思想研究会出版部(目次)

武田静澄著『日本の伝説の旅(上)』社会思想研究会出版部(5)岩槻城築城

 埼玉県の項目では岩槻城の築城伝説が取り上げられています。

道灌が、あるとき、この付近一帯を歩いていると、一羽の白鳥がとんできて沼におりたが、くわえていた木の枝を水上にうかべて、それにとまって羽をやすめた。道灌はこれに暗示をえて、沼に竹をたばねてうずめ、もり土をして築城したという伝説がある。そのため岩槻城は、白鶴城、浮城、竹たば城などという別名がある。(P155-156)

 沼というと…軟弱地盤だな。そもそもそんなところによく城なんぞを建てようと思ったものだ。まあ、そこが太田道灌の非凡なところだと言えなくもない。
 ちなみにこれはあくまでも伝説で、実際のところは不明ですが、太田道灌がそれくらいの難事業をやってのけるくらいの非凡な人物だったと見なされていたのは確かなようです。

【参考文献】
武田静澄著『日本の伝説の旅(上)』社会思想研究会出版部(目次)

【太田道灌関連記事】
吟亮流 初代鈴木吟亮 太田道灌蓑を借るの図に題す
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武田静澄著『日本の伝説の旅(上)』社会思想研究会出版部(4)滝夜叉姫

 平将門の娘・滝夜叉姫の伝説がありました。

(滝夜叉姫は)父平将門の遺志をついで相馬の古御所にひそみ、反旗をひるがえそうとはかったが、大宅<おおや>太郎光国のために滅ぼされた。姫は最後に白馬にのって相馬中村の牧馬の群れにまぎれこみ、ついにゆくえをくらませた。いまでも、放牧馬のなかに、滝夜叉姫の駿馬のすがたを見ることがあるといわれている。(P112)

 愚考するに、滝夜叉姫は馬の扱いに長けていて、しかも地元(相馬中村)の地理に通じていたし、おそらく逃亡を手助けしてくれる地元民もいたものと思われます。
 それから、今でも見ることがあるのは滝夜叉姫ではなくて馬の方だそうで、滝夜叉姫はどこかに行っているようです。しかしよくよく考えてみれば、滝夜叉姫はあえて目立つ白馬に乗って逃亡する姿を見せることで追手に白馬を印象付け、しかる後に馬を乗り換えるか乗り捨てるかして追っ手をまくくらいのことがあってもおかしくはない。

【参考文献】
武田静澄著『日本の伝説の旅(上)』社会思想研究会出版部(目次)

【滝夜叉姫関連記事】
滝夜叉姫のお墓『平将門史跡』

武田静澄著『日本の伝説の旅(上)』社会思想研究会出版部(2)恐山の怨霊

 タイトル「恐山の怨霊」はいかにも怪談のような響きですが、今回取り上げるのは坂上田村麻呂に関する伝説です。

 田村麻呂は勅命をうけて、朝威になびかぬ強硬なエゾの酋長をのこらず平らげたが、その残党はなお山野にかくれていた。その後もいくたびかそむいて、賊酋はついに田村麻呂の落胤の佐井丸夫妻を殺して仇を報じた。その佐井丸らの怨霊が、この恐山のなかをいまだにさまよっているとつたえている。(P44)

 佐井丸が坂上田村麻呂の子ということは、時代は平安時代初期。いまだにさまよっているとすれば、およそ1200年はさまよっていることになります。戦国時代の落武者の亡霊より長い。

【参考文献】
武田静澄著『日本の伝説の旅(上)』社会思想研究会出版部(目次)

武田静澄著『日本の伝説の旅(上)』社会思想研究会出版部(1)北海道の義経伝説

 衣川で死んだとされる源義経は、実は密かに脱出して蝦夷に渡った…という伝説があります。
 江戸時代、幕府の巡見使・近藤重蔵は、蝦夷地を探検して義経伝説の数々を聞くに至ります。

 近藤重蔵は、この伝説をエゾ地できいて驚嘆したが、じつは、これは遠い室町の世から、陸奥<むつ>の山里や、北辺の浦々、さいはての松前までも語りつたえられた奥浄瑠璃<おくじょうるり>というものによってひろめられたのであった。さらに、寛文ごろ(一六六一~七二)の写本「清悦物語」や、正徳二年(一七一二)刊の馬場信意の「義経勲功記」などの俗書がさかんに世におこなわれ、それが、東北一円に義経伝説のタネをまいていたという事柄が、すでに忘れ去られたためである。(P24-25)

 奥浄瑠璃に『清悦物語』、『義経勲功記』…。私の知らない文学が続出。私もまだまだだな。
 ともあれ、本書のスタンスは、北海道の義経伝説が広まったのは義経が実際にそこに行ったからではなく、広めたものがあった、ということにあります。少なくとも義経生存脱出を信じているようには見受けられません。

【参考文献】
武田静澄著『日本の伝説の旅(上)』社会思想研究会出版部(目次)

【源義経関連記事】
白旗神社&伝義経首洗井戸
電車での道順| 相州藤沢 白旗神社
伝源義経首洗井戸  神奈川県藤沢市藤沢2丁目
虎の尾を踏む男達
江戸歌舞伎「御摂勧進帳(ごひいきかんじんちょう)」
奥富敬之『義経の悲劇』角川書店
尾崎秀樹『にっぽん裏返史』文藝春秋(4)義経の首
浄瑠璃「牛王の姫」
浄瑠璃「浄瑠璃御前物語」
高木卓訳『義経記』河出書房新社(1)
高木卓訳『義経記』河出書房新社(2)
高木卓訳『義経記』河出書房新社(3)
高木卓訳『義経記』河出書房新社(4)
高木卓訳『義経記』河出書房新社(5)
高木卓訳『義経記』河出書房新社(6)
高木卓訳『義経記』河出書房新社(7)
高木卓訳『義経記』河出書房新社(8)
舞の本「未来記」
源義経公武蔵坊弁慶公之像(白旗神社)
謡曲「鞍馬天狗」
謡曲「舟弁慶」
謡曲「熊坂」
義経宿陣之趾の碑(満福寺)
義経松の碑(白旗神社)

江上波夫著『騎馬民族国家 日本古代史へのアプローチ』中央公論社

 騎馬民族征服説の本。騎馬民族征服説とは、古代、天皇氏を中心とする遊牧騎馬民族が大陸からやって来て日本を征服し、それが大和朝廷になった、というものです。
 現在、この学説は一般には支持されておらず、かく言う私も信じてはいません。その根拠については一々挙げませんが、一例を挙げると、記紀神話を読むと騎馬民族征服説とはどうにも合致しないところがあります。
 ここで一つ、『日本書紀』から引用してみます。素戔嗚尊が高天原で乱暴狼藉を働くくだりです。

 是の後に、素戔嗚尊の為行(しわざ)、甚だ無状(あづきな)し。何(いかに)とならば、天照大神、天狭田・長田を以て御田としたまふ。時に素戔嗚尊、春は重播種子(しきまき)し、且(また)畔毀(あはなち)す。秋は天斑駒を放ちて、田の中に伏す。(『日本書紀』巻第一第七段 P74)

 田や畔、重播種子の語を見れば察しが付くと思いますが、高天原では農耕をやっています。遊牧じゃない。馬(天斑駒)が出てくるじゃないかと思う人がいるかもしれませんが、農耕にだって馬は使われることをお忘れなく。
 長くなるので私の反論はこれくらいにとどめておくことにします。騎馬民族征服説に対する反論は他にもあるし、本書でも「もちろんこのような解釈には、反対論もすくなくはない」(P170)云々と書いてあるくらいです。
 とはいえ、私のような否定派であっても、本書を読んで得るところがありました。本書の前半では騎馬民族のスキタイ、匈奴、突厥、鮮卑、烏桓をざっくりと解説しており、この方面の知識があまりない者としてはこれらを知るいい機会になりました。
 ただ、本書執筆以後に発掘や研究の進展があったはずだから、ここに書いてある解説が現在どれくらい通用する事やら…。
 ともあれ、本書を読むと、昔はこんな学説があったんだなと知ることができます。

【参考文献】
江上波夫著『騎馬民族国家 日本古代史へのアプローチ』中央公論社
『日本書紀(一)』岩波書店

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