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四國西國秩父阪東參拝記念の碑(等覚院)

 神奈川県川崎市宮前区の等覚院にある、四國西國秩父阪東參拝記念の碑を解読してみました。

四國西國秩父阪東參拝記念の碑

【碑文】
四國西國
    參拝記念
秩父阪東
        當村神木
 昭和五年三月建之願主石坂悦次郎

 神木は当地の地名で「しぼく」と読みます。
 尚、昭和5年(1930年)3月は、金子みすゞや内村鑑三が死去しています。

百度鉢(等覚院)

 神奈川県川崎市宮前区の等覚院にある、百度鉢を解読してみました。百度石じゃなくて百度鉢です。本当はそんな名前じゃないのかもしれませんが、水鉢の形をしていたので勝手にそう呼ぶことにしました。
 尚、同寺院には他にも百度石があるのですが、そちらは碑文が読めなかったので解読を断念しました。

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【碑文】
(正面)
奉納
百度

(左面)
上布田驛
   原録之助
東京廣尾町
   玉川金三郎
神奈川青木町
   太田周蔵

(背面)
明治二拾年
丁亥四月
當山拾六世
   玄心代
 溝ノ口石工
    内藤留五郎

 溝の口の内藤留五郎? 内藤慶運の係累かな? と思って調べてみたら、どうも本人らしい。
 それから、この百度鉢が設置された明治20年(1887年)は自由民権運動が盛んだったころで、明治20年(1887年)4月はヘルマン・ロエスレルが「日本帝国憲法草案」を起草しています。

【関連記事】
百度石(目次)

榎戸の庚申塔(川崎市多摩区登戸)

 神奈川県川崎市多摩区登戸にある、榎戸の庚申塔を解読してみました。尚、この庚申塔は登戸にありますが、歩いて行く場合、登戸駅よりも向ヶ丘遊園駅の方が近いです。

榎戸の庚申塔

【碑文】
(正面)
庚申神

(右面)
明治三午十一月庚申日建之

(左面)
天下泰平五穀
成就風雨順時

(台座・正面)
北口
同行

(台座)
世話人
伊■尊■
齋■■■
吉沢久右■■
吉田■右エ門
原柳蔵
吉沢俵右エ門
鈴木金三郎
安田吾助
河辺房次郎
齋藤源次郎
小林作右エ門
吉沢紋左エ門
仝 富之助
小泉栄吉
清宮■次郎
吉沢又造
仝 勘右エ門
仝 嘉兵エ
仝 吉太郎
伊藤清三郎
井上鉄■■
清宮■之助
井出■右エ門
先達 吉田金平

※■は解読できず。

 庚申塔に貼り付けられている説明板に、碑文の殆どが書かれていました。それによると例えば碑文中の「伊■尊■」は「伊藤尊師」とのこと。
 それじゃあ私が解読する意味があるのかというと、説明板に書いてない部分や、説明していない部分にあるんじゃないかと思います。
 例えば説明板には世話人の名前が全て記されてはいないのですが、(台座・背面)に記された24名を見ると、うち8名が吉沢姓です。つまり、このあたりは吉沢姓が多い土地だと言えます。
 それから、この庚申塔が建てられた明治3年(1870年)11月は、戊辰戦争終結の翌年で、一応は「天下泰平」と言えなくもない。もっとも、数年後には不平士族の反乱が相次ぐという、そんな時代です。これでは天下泰平を願いたくもなる。
 ちなみに天下泰平の他に五穀成就と風雨順時も願っていて、風雨順時とは季節が季節通りに巡ることです。

【関連記事】
庚申塔(目次)

夜店通お不動さまの碑(幸福寺門前付近)

 神奈川県川崎市川崎区の幸福寺門前付近にある、夜店通お不動さまの碑を解読してみました。

夜店通お不動さまの碑

【碑文】
(正面)
夜店通 お不動さま

(背面)
東海道宿制定四百年記念
稲毛神社  宮本町  堀の内
川崎大師平間寺  幸福寺
            二〇〇一年五月一日

 このすぐ近くに川崎不動尊があるので、碑文の「お不動さま」とは川崎不動尊のことだと思われます。ちなみに稲毛神社も近くにあるし、川崎大師平間寺は少々離れてはいるものの同じ川崎区にあります。
 尚、2001年(平成13年)5月1日は、さいたま市が新設されています。

山号碑(久遠寺)

 神奈川県川崎市川崎区の久遠寺の山号碑を解読してみました。尚、私が久遠寺を訪れた時は門が閉じていたので、久遠寺で解読できたのはこの山号碑だけになります。

山号碑

【碑文】
(正面)
天台宗久遠寺

(背面)
昭和四十四年三月
  第四十五世大僧正文学博士大仙代
        鈴木庄三郎 寄進

 昭和44年(1969年)3月は、ダマンスキー島事件が起こっています。

芭蕉句碑(稲毛神社)

 神奈川県川崎市川崎区の稲毛神社にある、芭蕉句碑を解読してみました。

芭蕉句碑

【碑文】
(表)
      芭蕉
秋十とせ却って
 江戸をさす故郷

  平成六年十二月/芭蕉没後三百年 圓鍔勝三書[印]

(裏)
この句は芭蕉の最初の旅日記「野ざらし紀行」巻頭二番目の句である。
これが唐の詩人賈島の「桑乾ヲ渡ル」によることは分明である。
  客舎并州ステニ十霜
  帰心日夜咸陽ヲオモフ
  端ナクモ更ニ桑乾ノ水ヲ渡リ
  カヘッテ并州ヲ望メバ是故郷
桑乾は即ち多摩川に相当する。多摩川(六郷川)を渡り川崎宿に足を入
れた芭蕉が 十年暮した江戸をふり返り そこを故郷と吟じたのである。
この句の碑が芭蕉没後三百年の年に 彫刻家圓鍔勝三氏の揮毫により
旧川崎宿鎮守稲毛神社に建てられることは洵に時人所を得たことである。
なお この十年後 芭蕉は八丁畷で「麦の穂」の句を残している。芭蕉と
川崎の縁の深さが思われる。
     平成六年十二月  飯塚秀吉 識

 松尾芭蕉の句碑はこれまでに何度か見かけていますが、字が崩れていて解読を断念してきました。しかしこちらは幸いにも読みやすいので、私でも読むことができました。
 さて、碑文中の「麦の穂」の句とは、「麦の穂をたよりにつかむ別れかな」という句で、八丁畷にその句碑が立っています。芭蕉ファンならそちらにも行ってみるといい、ということなのでしょう。
 また、圓鍔勝三(えんつばかつぞう)(1905-2003)は1991年に川崎市名誉市民となっており、こちらの作品はその3年後(平成6年=1994年)、氏にとっては晩年に当たります。
 尚、平成6年(1994年)12月は、秋篠宮佳子内親王が生まれています。

【松尾芭蕉関連記事】
芭蕉~BASHO~
雑誌『禁談』(5)わらべ唄に隠された徳川埋蔵金の在処(P91-94)
松尾芭蕉像(南千住駅前)

平成御大典奉祝事業完成記念碑(稲毛神社)

 神奈川県川崎市川崎区の稲毛神社にある、平成御大典奉祝事業完成記念碑を解読してみました。

平成御大典奉祝事業完成記念碑

【碑文】
平成御大典奉祝事業完成記念碑

役員及び奉納者芳名      
稲毛神社宮司(着工時)    市川浩之助
 同  宮司(完成時)    市川緋佐麿
 同  大総代        野崎信春
 同   同         福嶋治郎吉
 同   同         伊藤昌彦
 同   同         川岸吉太郎
 同   同         大澤淳一郎
 同   同         菅原信
稲毛神社大総代・崇敬会会長  福嶋三郎
稲毛神社敬神婦人会会長    中野いろ子
稲毛神社氏子青年会会長    張戸光一
サロン稲毛代表        渡辺達夫
稲毛神社稲毛衆会長      西井敏治

顧問 斎藤文夫
同  小泉純一郎
同  柏木進一

大日本企業(株) 千賀通裕
中央区 塚本清士郎
(株)森野衣裳店 森野巌
日本ビルサービス(株)
(株)湯ヶ嶋高原倶楽部
清水建設(株)
(株)ダブルアイ
三菱石油(株) 川崎製油所
(中略)
他 九九〇名

事業内容
一、狛犬奉建(青銅製)
   施工・(株)現代彫刻センター
   製作・藪内佐斗司
一、御由緒板奉建
一、境内由緒解説板設置
一、社殿内装飾

 平成三年十二月吉日

 顧問の中に小泉純一郎元首相の名前があって、ちょっと驚きました。この碑が建てられた平成3年(1991年)は、彼が山崎拓や加藤紘一と共にYKKを結成した頃です。
 尚、平成3年(1991年)12月は、ソ連が崩壊しています。

【平成の御大典関連記事】
御神牛の碑(布多天神社)
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櫻田殉難八士之碑(豪徳寺)

 東京都世田谷区の豪徳寺にある、櫻田殉難八士之碑を解読してみました。尚、この碑は井伊直弼の墓の裏側に立っています。この位置は見落としやすい。

櫻田殉難八士之碑

【碑文】
(表)
櫻田殉難八士之碑

(裏)
萬延元年三月三日櫻田之變死之者
八人曰日下部三郎右衛門令立河西
忠左衛門良敬澤村軍六之文小河原
秀之丞宗親越石源次郎満敬永田太
郎兵衛正備加田九郎太包種岩崎徳
之進重光今茲二十七回忌辰樹石於
先考墓側以表忠節云
明治十九年三月廿八日
  従四位勲三等伯爵井伊直憲識

【読み下し文】
櫻田殉難八士の碑
萬延元年三月三日、櫻田の變に死す者八人。曰く、日下部三郎右衛門令立、河西忠左衛門良敬、澤村軍六之文、小河原秀之丞宗親、越石源次郎満敬、永田太郎兵衛正備、加田九郎太包種、岩崎徳之進重光。今ここに二十七回忌の辰(とき)、先考(公?)の墓の側に石を樹(た)て以て忠節を表わすと云う。
明治十九年三月二十八日
  従四位勲三等伯爵井伊直憲識(しる)す。

【現代語訳】
桜田殉難八士の碑
 万延元年(1860年)3月3日、桜田門外の変にて死んだ者8名。すなわち、日下部三郎右衛門令立、河西忠左衛門良敬、澤村軍六之文、小河原秀之丞宗親、越石源次郎満敬、永田太郎兵衛正備、加田九郎太包種、岩崎徳之進重光である。今ここに27回忌の時に当たり、石碑を先代当主(井伊直弼)の墓の側に立てて、それによって(彼らの)忠節を表彰する。
 明治19年(1886年)3月28日
  従四位勲三等伯爵・井伊直憲記す。

 桜田門外の変で闘死した彦根藩士8名の顕彰碑。
 碑文は漢文ですが、さほど難しいものではないので、解読は楽でした。とはいえ、注意を要する点がなきにしもあらずだったので述べておくと、辰・樹・考の3文字にはご注意を。
 辰は手許の漢和辞典(旺文社)を引くと「とき」の意味があったのでそれを採用。樹は樹立という語があることから「たてる」の意味に取れます。それから「先考」は「先公」の誤りじゃないかと思いました。それなら意味が通ります。

【桜田門外の変関連記事】
桜田門外ノ変
日本暗殺秘録
遠城謙道師遺蹟碑(豪徳寺)
櫻田烈士愛宕山遺蹟碑(愛宕神社)
司馬遼太郎「桜田門外の変」

日野熊蔵之像(代々木公園)

 東京都渋谷区の代々木公園にある、日野熊蔵之像の碑文を解読してみました。尚、この銅像は日本航空発始之地記念碑の近くにあります。

日野熊蔵之像

【碑文】
(正面)
日野熊蔵之像
  美土路昌一書

(左面)
限りなき大空
限りある人生
限りなき代々の祖國のために
限りある現世の定命をささぐ
          [印]

(右面)
紀元二六二六年四月二十三日建之

(背面)
 翁は熊本の産 豪放磊落
英仏独語に通じ 数理に秀で
選ばれて 独逸に飛行機操縦を
習得し 一九一〇年十二月十九日
此地に於て発動機の不調を
克服してグラーデ式を駆り
一分間一〇〇〇米の飛行を
した不屈の精神は次代の
青少年の範とすべきである
 昭和四十一年四月二十三日
         松野頼三


 飛行機唱歌
  明治四十四年六月十七日 作
     作詞 日野 熊蔵
     作曲 岡野 貞一
勇み立つたる推進機の
  響きは高し音高し
時こそよけれ放てよと
  弓手を挙ぐる一刹那
御國を守るますらをよ
  勲立つる戦場は
かの大空にありと知れ
  かの大空にありと知れ

 平成十七年四月十七日
日本航空発始之地顕彰保存会
     航空碑奉賛同人会

 右面に「紀元二六二六年」とありますが、紀元はこの場合皇紀で、皇紀2626年は西暦1966年(昭和41年)。この部分の日付、皇紀2626年4月23日は、松野頼三が記した日野熊蔵の略歴の日付、昭和41年4月23日と一致します。
 従って、略歴部分は銅像建立当初からあり、飛行機唱歌は後付け(平成17年は2005年)だと思われます。

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徳川好敏之像(代々木公園)

【飛行機映画】
戦闘機対戦車

徳川好敏之像(代々木公園)

 東京都渋谷区の代々木公園にある、徳川好敏(よしとし)之像の碑文を解読してみました。尚、この銅像は日本航空発始之地記念碑の近くにあります。

徳川好敏之像

【碑文】
(正面)
日本航空の父
 徳川好敏之像
    井上幾太郎書

(背面)
 誠実 謹厳 航空に
生涯を捧げた この人が
明治四十三年(一九一〇年)十二月
十九日 この地代々木の原で
アンリ・ファルマン機を操縦し
わが国の初飛行を行い
  飛行時間 四分
  飛行距離 三〇〇〇米
  飛行高度 七〇米
 の記録を創造して
日本の空に人間飛翔の
歴史をつくった
 昭和三十九年四月十七日
        赤城宗徳
 像作者 鋳金家 市橋敏雄


至誠
通神
 好敏(花押)

  平成十七年四月十七日
日本航空発始之地顕彰保存会
     航空碑奉賛同人会

 碑文中の「三〇〇〇米」「七〇米」の米はメートルの意。
 それから背面に昭和39年(1964年)4月17日と平成17年(2005年)4月17日と、2種の日付がありますが、作者の「至誠通神」とある方は後付けであると思われます。
 それにしても、昔ここは飛行機が飛ばせるくらい広かったのか。

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