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勇猛院日健尊儀の碑(鈴ヶ森刑場跡)

 東京都品川区の鈴ヶ森刑場跡にある、勇猛院日健尊儀の碑を解読してみました。

勇猛院日健尊儀の碑

【碑文】
(表)
勇猛院日健尊儀
五十回忌記念石柱柵寄附者連名大正六年四月十日建設東京中日建設
(※氏名多数につき、これを省略)

(裏)
世話人
(※氏名多数につき、これを省略)

 勇猛院日健という名前を見ると、日蓮宗の僧侶かなと思ったのですが、帰宅後に調べてみると、元彰義隊士・渡辺健造なる人物のことと判明しました。彼は彰義隊を脱走して、当時江戸に進駐してきた官軍の総司令官・有栖川宮熾仁親王を暗殺しようとして失敗、捕まって処刑されました。
 そもそも幕末から明治初期にかけては暗殺が横行しており、この渡辺健造もそんな暗殺実行犯の一人。50年も経ってこんな大きな石碑が立つような人物とは思えません。

水難者供養塔(鈴ヶ森刑場跡)

 東京都品川区の鈴ヶ森刑場跡にある、水難者供養塔を解読してみました。

水難者供養塔

【碑文】
(前面)
水難者供養塔
御林
漁業

(両側面)
(※氏名多数につき、これを省略)

(背面)
明治四十三年七月十八日建之

 そういえば、ここは今は埋め立てで海岸線から少々離れていますが、昔は沿岸部でしたな。

社殿再建記念の碑(皆中稲荷神社)

 東京都新宿区の皆中稲荷神社にある、社殿再建記念の碑を解読してみました。

社殿再建記念の碑

【碑文】
 奉納
社殿再建記念
 鳥居壹基
 玉垣貮十間
昭和三十四年九月二十五日

(※奉賛者多数につき、これを省略)

 鳥居は神社の入口に立つ門で、玉垣は神社の境内を囲う柵。
 碑文によると、社殿の再建に際して、鳥居1基と玉垣20間(≒36m)を奉納したということらしい。
 ちなみに昭和34年(1959年)というと、キューバ革命が起こった年です。

奉納敷石の碑(皆中稲荷神社)

 東京都新宿区の皆中稲荷神社にある、奉納敷石の碑を解読してみました。

奉納敷石の碑

【碑文】
(表)
  社殿改築記念
奉納 敷石 百人/箪笥 旧厚友會
  昭和四年十一月吉日

(裏)
石新刻

 社殿を改築する際に、旧厚友会が敷石を奉納したということらしい。
 ちなみに昭和4年(1929年)というと、世界恐慌が始まった年です。又、日本では小林多喜二『蟹工船』が有名。

【関連記事】
敷石供養塔(高井戸不動尊)
敷石の石碑(大國魂神社)

百度石(皆中稲荷神社)

 東京都新宿区の皆中稲荷神社にある、百度石を解読してみました。
 尚、百度石とはお百度参りの起点となる標識で、ここからスタートして社殿へ参り、ここへ戻ってきて再び社殿へ参り…と繰り返すわけです。ちなみにお百度参りは他人に見られてはならないというルールがあると聞きましたが、皆中稲荷神社は駅前の繁華街の中にあるので、誰にも見られずにお百度参りを成し遂げるのは無理でしょうな。

百度石

【碑文】
(表)
百度石

(裏)
明治四十五年
  七月吉日
   横山余五郎建之

 ちなみに明治45年(1912年)7月に何が起こったかというと、明治天皇の崩御です。うわぁ…。

【関連記事】
百度石(目黒不動尊)
百度石(陽運寺)

奉納鎧神社の碑(鎧神社)

 東京都新宿区の鎧神社にある、奉納鎧神社の碑を解読してみました。

奉納鎧神社の碑

【碑文】
(表)
奉納鎧神社

(裏)
明治三十二年 九月吉日
           川本金太郎

 明治32年(1899年)というと…ヘミングウェーが生まれた年です。他にもあるのかもしれませんが、ちょっと調べてみてわかりやすいのはこれくらいしか出てきませんでした。

立太子禮奉祝記念碑(鎧神社)

 東京都新宿区の鎧神社にある、立太子禮奉祝記念碑を解読してみました。

立太子禮奉祝記念碑

【碑文】
(表)
立太子禮奉祝記念碑
   市倉■吉■■

(裏)
大正五年十一月三日

※■は解読できず。

 大正5年(1916年)に立太子の礼が行われたことを祝う石碑。立太子の礼とは天皇が皇太子を内外に宣言する儀礼で、この時の天皇は大正天皇であり、皇太子に立てられたのは迪宮(みちのみや)裕仁親王、即ち後の昭和天皇です。

兜松之碑(鎧神社)

 東京都新宿区の鎧神社にある、兜松之碑を解読してみました。

兜松之碑

【碑文】
(表)
兜松之碑

(裏)
昭和五十三年九月
 内田金太郎
 松崎藤三郎
 浅井幸太郎
 中田石材

 伝説によると平将門の兜を埋め、その目印として植えた松が兜松だとか(うろ覚え)。
 ちなみに平将門が討たれたのが天慶3年(940年)で、この石碑が建てられたのは昭和53年(1978年)。両者には約1000年の開きがあります。

護衛不動尊の碑(目黒不動尊)

 東京都目黒区の目黒不動尊(瀧泉寺)にある、護衛不動尊の碑を解読してみました。

護衛不動尊の碑

【碑文】
(表)
災厄除 護衛不動尊

目黒不動明王垂迹縁起
 維昔大同三年慈覚大師年甫十五随大慈寺廣智
 闍梨回下野國赴比叡山途過武州荏原郡妻驪里
 日暮授宿夜夢神人面大青黒手持鉤索威猛可怖
 告曰我欲垂迹此地伏魔鎮國馬荀帰仰者我能了
 其志願楽師以夢中事遽告廣智智曰霊夢實奇盍
 留神形以傳其瑞師乃黙想所夢以刻尊像像威一
 如夢所見遂安置於其地
        目黒不動尊
         開山 一千二百年記念奉安

(裏)
衆生を影の如くに護衛し
 災厄難を除く不動尊を
   平成の御世に安置す
    内平かに外成る 地平かに天成る

一切の生きとし生けるものは
   幸福であれ 安穏であれ 安楽であれ
     佛日増輝 法輪常轉

       平成二十年戊子霜月吉日
          當山 中興第十一世
                 順浩代

【読み下し文】
災厄除く 護衛不動尊

目黒不動明王の垂迹の縁起
 これ昔、大同三年慈覚大師年甫十五、大慈寺廣智闍梨に随(したが)いて下野国を回り比叡山に赴く途(みち)で武州荏原郡妻驪里を過ぎ、日暮に宿を授る。夜、夢に神人、面大青黒にして手に鉤索を持ち、威猛くして怖るべし。告げて曰く、「我この地に垂迹せんと欲す。伏魔鎮国の馬いやしくも帰迎すれば我よくさとる」と。その志願楽し。師以て夢中の事をにわかに廣智に告ぐ。智曰く、「霊夢実に奇なり。なんぞ神の形を留め、以てその瑞を伝えざる」と。師すなわち黙想し、夢みる所を以て尊像を刻む。像威は夢の所見と一如たり。遂にその地に安置す。
        目黒不動尊
         開山 一千二百年記念奉安

【拙訳】
災厄除く 護衛不動尊

目黒不動明王の垂迹(※1)の縁起(※2)
 昔々、大同3年(808年)、慈覚大師が1月15日に、大慈寺の廣智闍梨に随行して下野国を回って比叡山へ赴く途中で、武州荏原郡妻驪里を通り、日暮れに宿を借りた。その夜、夢に神人が現われた。(神人は)顔が大いに青黒く、手に鉤索(※3)を持ち、威風が猛々しくて怖ろしかった。(神人が慈覚に)告げて言った。
「私はこの地に垂迹したい。もし私に従って魔を降伏し国を鎮護する手伝いをしてくれるならば、悟りを開くことができるぞ」
 その(神人の)志願は、(慈覚にとっては)楽しいものであった。慈覚大師は夢の中の出来事をすぐに廣智に告げた。廣智は言った。
「霊夢は実に奇特なことである。神の姿を形にして、その瑞祥を(世に)伝えてはどうか」
 そこで慈覚大師は黙想し、夢に見た姿を尊像として彫刻した。尊像の威風は夢に見たものと同じであった。そしてついに(その像を)その地に安置した。
        目黒不動尊
         開山 一千二百年記念奉安

※1.仏が衆生を救済するために仮の姿となって現われること。
※2.この場合は目黒不動尊の由来。
※3.鉤は先の曲がった金属製の具、索は縄。

 平成20年(2008年)と石碑にしては新しいものですが、漢文の解読に難航しました。特に、「伏魔鎮國馬荀帰仰者我能了」の部分はとりあえず意味が通るようには訳しましたが、今でもこれでよかったのかと迷うところです。

山不動堂再建紀念碑(目黒不動尊)

 東京都目黒区の目黒不動尊(瀧泉寺)にある、山不動堂再建紀念碑を解読してみました。

山不動堂再建紀念碑

【碑文】
昭和貮年丁卯五月吉日
山不動堂再建紀念碑
奉納祠堂金五拾圓也

 世話人
大竹僉吉
矢野米吉
和田八五郎
■石半次郎
高井福太郎
野村富作
竹中瀧次郎
深田銀太郎

※■は解読できず。

 昭和2年(1927年)に山不動堂を再建した記念碑。
 この年に起こったことといえば…芥川龍之介が自殺しています。

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