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寄進燈籠・庭石の碑(高野山東京別院)

 東京都港区の高野山東京別院にある、寄進燈籠・庭石の碑を解読してみました。

寄進燈籠・庭石の碑

【碑文】
 寄進
燈籠
庭石
 平成元年八月吉日
   施主 帆刈実
    品川区南品川(以下略)

 燈籠と庭石を寄進したことを示す碑。
 碑文では施主の住所が番地までバッチリ書かれていましたが、ここでは番地を省略。
 尚、平成元年(1989年)8月は海部俊樹内閣が発足しています。

奉納手水屋等の碑(高野山東京別院)

 東京都港区の高野山東京別院にある、奉納手水屋等の碑を解読してみました。

奉納手水屋等の碑

【碑文】
   奉納
一手水屋と本小松手水磐
一藤棚と作庭
高野山東京別院が高野山開創一千二百年
記念事業として境内整備をおこなうに当り
その一環としてつどいの浄域造りにご寄進の
機会をいただきましたことは、大師信者
として無上の喜びであり、ここに謹んで
報謝の意を表します
故郷伊予大島に生を享けて以来 海外を
活躍の拠点としてまいりました私が高野山
東京別院に安住の聖地を定め結縁いただけ
ました事に感謝申し上げます
                 合掌
   平成二十二年 春彼岸
       村上忠男
         秋江

 平成22年(2010年)は、カナダでバンクーバー五輪が、南アフリカでFIFAワールドカップが開催されています。

6種献木の碑(高野山東京別院)

 東京都港区の高野山東京別院にある、献木の碑を解読してみました。

6種献木の碑

【碑文】
(正面)
献木 男松/山紫陽花

(右面)
献木 クリスマスローズ/山茶花

(左面)
献木 月桂樹/グアバ

(背面)
令和二年六月   町田信子
 世田谷区経堂  山崎公明
         山崎栄二

 植樹の記念碑。
 碑文の通りならば6種類の木を植えたことになります。これは珍しい。
 それから、この碑にある町田信子の名は同寺にある「やまぼうし献木の碑」にも載っており、所在地も同じ世田谷区経堂なので、同一人物だと思われます。又、山崎公明の名は同様に「月桂樹献木の碑」にあり、こちらも同一人物だと思われます。
 尚、令和二年(2020年)6月は、東京メトロ日比谷線の虎ノ門ヒルズ駅が開業しています。

灯篭建立由来の辞の碑(高野山東京別院)

 東京都港区の高野山東京別院にある、灯篭建立由来の辞の碑を解読してみました。

灯篭建立由来の辞の碑

【碑文】
(表)
灯篭建立由来の辞

 灯明は、迷い、苦しみの闇にさし込む
 仏の智恵のシンボル
 灯明は、わが身を燃してまわりを照す
 「生かせ、いのち」の象徴

高野山奥之院では「貧女の一灯」が、不滅の
法灯として輝き続けています、そこから採火
されたともしびが、全行程五七〇キロ、
弘法大師の御心をわが心とする神奈川の青年
僧侶の団体(青年教師会)の徒歩行脚により
平成十四年十月二十一日、ここ高野山東京別院
萬霊萬華会の灯明として点じられました。
国境、人種、民族の壁を超えたこの世界の
すべての人々、及びこれからこの世界に、
生まれ出る子孫たちへの、限りなき栄えの願い
が込められた聖なるともしび。その「点灯台」
として建立されたのがこの灯篭で、以後
大きな行事の際、灯がともされます。

 願わくば、この光業によって自他を
 抜済せん。同じく共に一覚に入らん
   (弘法大師「高野山萬灯會願文」)
南無大師遍照金剛
  平成十五年春吉日
     高野山東京別院

(裏)
撰文 高野山真言宗東京別院主監 壽山良知
奉納 高野山真言宗神奈川宗教支所青年教師会

横浜~高野山徒歩参拝
 横浜 大仙寺 発 平成六年五月九日
 高野山奥之院 着 平成六年五月三十一日
 第十代会長 安達信宏
 実行委員長 服部融信
貧女の一燈行脚
 高野山奥之院  発 平成十四年九月二十七日
 高野山東京別院 着 平成十四年十月二十一日
 第十四代会長     美松寛昭
 貧女の一燈行脚実行委員長 渡井敬介
(※以下、氏名多数につき、これを省略。54名)

 写真向かって左側の燈籠(灯篭)の由来を記したもので、燈籠には「聖灯 高野山真言宗神奈川青年教師会建之」とありました。
 それにしても、火を運ぶのにわざわざ徒歩というのは、これも修行の一環なのでしょう。楽をしようと思えば車で種火を運べばいいし、もっと楽をしようと思えばわざわざ運ばずともライターで…って、さすがにそれではありがたみが感じられないか。

佐川幸義先生顕彰碑(高野山東京別院)

 東京都港区の高野山東京別院にある、佐川幸義先生顕彰碑を解読してみました。

佐川幸義先生顕彰碑

【碑文】
(表)
正伝大東流合氣武術宗範
佐川幸義先生 顕彰碑

(裏)
                   主監 鈴木英全 代

佐川幸義先生は 後に武田惣角先生の教授代理となった佐川子之吉の長男として明治三十五年 北海道湧別に生まれた
十歳から大東流合氣柔術を武田先生より伝授され 昭和十四年には唯一の正統総伝の免状を授与された
昭和二十九年に武田宗清・時宗兄弟の推薦により武田先生の跡を継いだが後に宗家を返上し正伝大東流合氣武術宗範となる
東京都小平市で平成十年三月二十四日に九十五歳でこの世を去るまで修行と指導に専念した
合氣とは氣を合わすと訓じ 宇宙天地・森羅万象の全ては融和・調和により円満に滞りなく動じているが その調和が合氣である
佐川先生の極めて実戦的な武術はこの合氣に基づいており 如何なる激しい攻撃も瞬時に無力化し制してしまう
晩年には佐川先生の存在が合氣と一体になり 繰り出される合氣の技は神業であった
努力・鍛錬・研究・工夫を生涯絶え間なく続け 身を以て人間の大いなる可能性を示した偉大な業績を讃え ここに顕彰するものである
                平成二十八年三月二十四日
                  大東流合氣佐門会
                   理事長 木村達雄 建之

 合気道の達人・佐川幸義宗範の顕彰碑。
 武道家の石碑ならば目黄不動尊に「徳三宝頌徳碑」があり、それに較べれば小さいものの、それでも立派なものです。
 尚、明治35年は西暦1902年、昭和14年は1939年、昭和29年は1954年、平成10年は1998年、平成28年は2016年です。

後藤田正晴夫妻の碑(高野山東京別院)

 東京都港区の高野山東京別院にある、後藤田正晴夫妻の碑を解読してみました。

後藤田正晴夫妻の碑

【碑文】
(表)
  正三位勲一等旭日大綬章 後藤田正晴
              (憲徳院殿東山誠通大居士)

      妻       後藤田松子
              (恵倫院殿松室智円清大姉)

(台座)
忍耐はすべての
 扉を開く

本当に国の将来
未来を切り開こうと
考えるのなら
歴史に正対をしていくぐらいの
覚悟がなくて、どうなりますか
歴史に正対せよ
それだけの国として
また国民としての勇気を持て
道義性を持て
これがいちばん大事だよ
歴史から逃げたらあかん
ということです
(平成十七年五月二十四日 加藤周一氏との対談にて)

一日生涯

  後藤田正晴

(裏)
正三位 後藤田正晴は貞永(西暦一二三二年)以前より今鞍の姓で徳島県
麻植郡東山村の地に神霊を祀り、明應二年(西暦一四九三年)、改宗改姓した
佛式後藤田家十五世当主後藤田増三郎忌部信光、妻ヒデの四男として
大正三年(西暦一九一四年)八月九日誕生(幼名誠通)。
昭和十四年東京帝国大学卒業後内務省官吏となり、第二次世界大戦に応召、
昭和二十年松子(通称侑子)と結婚三男一女をもうける。昭和二十一年分家。
復員後復職し昭和四十四年警察庁長官、昭和四十七年内閣官房副長官、
退官後昭和五十一年徳島県から衆議院議員に当選、自治大臣、国家公安委員長、
北海道開発庁長官、内閣官房長官、行政管理庁長官、総務庁長官、法務大臣、
副総理を歴任。政界引退後日中友好に努め、自身の戦争体験から来る平和への
強い思いが一貫した政治信念であった。平成九年勲一等旭日大綬章を叙勲。
平成十七年(西暦二〇〇五年)九月十九日没、享年九十一歳。
松子は天保八申年徳川家斉二十二男松菊君に付き添い蜂須賀家に入った
錦岡院殿を家祖とする岡本家四代当主岡本政助、妻ツルノの四女として
大正十二年(西暦一九二三年)四月三十日徳島市常三島町で誕生、
昭和十七年徳島女学校を卒業後、徳島市寺島町本町の商家吉見家の
養女となる。昭和二十年後藤田正晴に嫁ぎ、内に於いて家庭を守り
外に於いては政治家後藤田正晴を支えた。
平成二十八年(西暦二〇一六年)四月十二日没、享年九十二歳。
(平成二十八年五月追記)
           平成十八年三月吉日 二代 後藤田 尚吾 記

 後藤田正晴は中曽根政権で官房長官を務めた政治家で、「カミソリ後藤田」と言われました。
 さて、碑文を読んでみると、夫妻それぞれの先祖への言及があります。庶民出身の者の顕彰碑ではちょっとお目にかかれないものです。ここには自分たちの先祖を誇るという、一種の名門意識が感じられます。
 それから、碑文を記した後藤田尚吾は後藤田正晴の長男。後藤田尚吾の名は同寺の「高野山東京別院縁起の碑」にもあります。
 尚、高野山東京別院には後藤田正晴の墓があります。たしか本堂の脇にあったと記憶しております。

高野山東京別院縁起の碑(高野山東京別院)

 東京都港区の高野山東京別院にある、高野山東京別院縁起の碑を解読してみました。

高野山東京別院縁起の碑

【碑文】
   高野山東京別院縁起
本山  高野山真言宗総本山金剛峯寺
名称  高野山東京別院
御本尊 宗祖 弘法大師
御宝号 南無大師遍照金剛

 慶長年間(一五九六年)
   高野山の学侶方(※1)の在番所として開創
 延宝年間(一六七三年)
   「高野山江戸在番所高野寺」として建立
   幕府との交渉 全国の真言寺院に通達をす
 明治元年(一八六八年)
   在番所の廃止に伴い長壽寺名蹟を移して
   寺蹟を継承
 昭和二年(一九二七年)
   「高野山東京別院」に改称
 昭和六十三年(一九八八年)四月
   現在の本堂落慶

住職は総本山金剛峯寺座主が兼摂(※2)し主監(※3)を任命して
首都圏における「大師信仰」の教化をはかっている

令和二年七月吉日

     為後藤田家先祖代々各霊菩提也 後藤田尚吾奉納

※1.専ら学道修行に務める僧衆。
※2.兼任。
※3.監督・管理する人。

 高野山東京別院の歴史を簡略に記したもの。
 奉納者の後藤田尚吾は後藤田正晴(政治家)の長男。ただし検索してもそれ以上詳しいことは出てこず。表舞台に出てこない人なのかな? ちなみに、後藤田尚吾の名は同寺にある「後藤田正晴夫妻の碑」にもあります。
 それはさておき、令和2年(2020年)7月というと、コロナ禍でGO TOトラベルキャンペーンが開始されましたっけ。

『ちよだ歴史さんぽMAP 江戸・東京事件の現場めぐり(4)』一般社団法人 千代田区観光協会

 江戸時代から現代まで、千代田区で起こった事件の歴史地図。
 ここに挙げられた事件の内の幾つかは、当ブログでレビューした映画で描かれています。参考までにリンクを貼っておきます。

松野大廊下刃傷事件
忠臣蔵外伝 四谷怪談

桜田門外の変
桜田門外ノ変
日本暗殺秘録

紀尾井坂の変
日本暗殺秘録

警視庁占拠(二・二六事件)
戒厳令(1973年)
日本暗殺秘録

進駐軍来たる
太陽(2005年)

ちよだ歴史さんぽMAP 江戸・東京事件の現場めぐり(4)

平和観音の碑(広福寺)

 神奈川県川崎市多摩区の広福寺にある、平和観音の碑を解読してみました。

平和観音の碑

【碑文】
(正面)
此の、観世音菩薩像は世界の平和と、郷土の
安穏。人々の幸せの悠久なることを、祈念して
建立するものであります(御像北村西望先生作)
 私は幾度か傷病による生命の危機を のり越えながら今日を迎えました。
 母よりの愛、四十五年の書■書道会員の援助、すべて是れ、観世音の
 大慈悲によるものとなし、明日の證とするものであります。
   平成八年四月      象雲横山日吉 八十四歳

(右面)
第四十八世 勝健代

(左面)
東大和 武蔵石材店

(背面)
多摩書道界有志 四十五周年記念
協賛
常石象龍
齊藤綾雲
奥井象玉
大瀧象鳳
与芝象佳
山田紅雲
大井象和

正田象柳
網野恵雲
内野良雲
伊藤象道
土田朝雲
坂本白雲
矢中象華

岡部千雲
早川江雲
伊藤勢雲
榎本磯雲
安倍イツ子
大熊イシ
折原みゑ子

杉山象葉
菊地震雲
齋藤象文
渡辺玉雲
山本彩雲
小坂象悦
後藤玲雲
谷脇陽雲

施工 立川 セレモアつくば社

※■は解読できず。

 まずはこれを書いた「象雲横山日吉」について。横山日吉が本名で象雲が号でしょうな。そこで「横山象雲」で検索すると、書道の師匠として言及されているページが複数ヒット。私はこの方面に疎いのでよくわかりませんが、彼は書道の先生として高名なようです。
 次に「(御像北村西望先生作)」ですが、最初は「(」が欠けているかと思っていたら、写真を拡大してよくよく見ると「(」がうっすらとあることを発見し、原稿を慌てて書き直す羽目に。他にも句読点の修正などをしました。
 それから御像とはこの観音像。又、作者の北村西望は長崎の平和祈念像を作った人で、横山象雲より有名。
 他にも協賛者の名前を幾つか検索したところ、大瀧象鳳は小学館から『脳いきいき!般若心経硬筆写経帖(5)』を出していました。又、協賛者たちの多くの名前に「象」「雲」があることから、彼らが横山象雲の門下生であるらしいことがうかがえます。

稲毛節歌碑(広福寺)

 神奈川県川崎市多摩区の広福寺にある、稲毛節歌碑を解読してみました。

稲毛節歌碑

【碑文】
 稲毛節
明ける遠雲山幾重
端てに主君の雄叫びは
いざ鎌倉人死守堅き
稲毛三郎重成が
集めし荘士十六郷

 千葉大学学生歌に「稲毛節(こちらは『いなけぶし』という)」がありますが、それとは別物。本記事で取り上げる稲毛節は、稲毛重成の武勇を歌っています。
 稲毛重成は鎌倉時代初期の武将で、広福寺門前の説明板によると広福寺を中興とありました。寺に大きな功労のあった者を称える歌碑を建てて、その人物を顕彰しているわけですな。
 ところで、今回の解読には正直言ってそんなに自信がありません。達筆すぎて読みにくいのです。「遠」や「重」などはこれでいいのかという思いがあります。
 又、「端てに」の語は「端手(はして)に」と解釈しました。端手とは、箙(えびら)の矢柄を寄せかける枠の部分で、要するに陣中で斜め後ろから主君の雄叫びを聞いていざ戦いへ赴かん、ということなのでしょう。

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