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社号標(給田六所神社)

 東京都世田谷区の給田六所神社の社号標を解読してみました。

社号標

【碑文】
(正面)
村社六所神社

(背面)
        官幣小社大國魂神社宮司猿渡盛厚拝書
皇紀二千六百年記念
         氏子中

 碑文中の村社及び官幣小社は旧社格で、今その制度はなくなっています。それから皇紀は神武天皇の即位を元年とする年号で、皇紀2600年は西暦1940年(昭和15年)。
 それにしても、こんなところに猿渡盛厚の揮毫がありましたか。給田六所神社の境内に立つ説明板によると、この神社は天文年間(1532-1554)に府中六所宮(現大國魂神社)より分霊を勧請したとのことなので、仏教で言えば末寺の山号碑を本寺の住職が揮毫するようなものなのでしょう。

【猿渡盛厚関連記事】
社号標(大國魂神社正面参道入口)
分倍河原古戦場碑

六所神社記念碑(給田六所神社)

 東京都世田谷区の給田六所神社にある、六所神社記念碑を解読してみました。

六所神社記念碑

【碑文】
(表)
六所神社
記念碑
 
 終戰後社會情勢一変当給田町も發展の一路をたどる時氏子一同特
に敬神の念篤く六所神社のためよく協力し昭和三十二年には境外地
を宅地とし希望者に貸地神社収入の増加を計りたり 尚昭和三十四
年より有志者相議り二間道路を八米都道に改修左記の事業を完遂し
た 茲に永久の記念として碑を建つるものなり
 一、神社西側道路幅員拡張に伴ない神社境内及接續山林合計五十六坪四勺
   を道路に寄付三坪を第一生命保険相互會社え交換地として譲渡會社よ
   り代替地として七十坪一勺を受領した 昭和三十四年六月五日役員会
   決議仝月二十二日神社本庁統理承認仝年八月二十七日分筆登記仝年十
   二月二十二日土地交換登記
 一、改修道路及會社より受領土地境から北側道路添に鉄筋入混凝土造玉垣
   五十二間を新造鳥居二基社号標水舎参道敷石並に境内地に土盛地上した

(裏)
宮司  池亀一熙
総代人 池亀宮吉
    池亀平四郎
    田中松之助
道路建設促進会
代表  田中松之助
    池亀宮吉
    池亀堅蔵
    麻生光行
    田中万季
    宍戸佳啓
 神社大世話人
    池亀武雄
    宍戸定一
    池亀章
(※以下、氏名多数につき、これを省略)
 
 昭和三十六年十月吉日建之

 昭和32年(1957年)に給田六所神社の境外地を宅地として貸し出したことと、昭和34年(1959年)に道路拡幅工事に伴い土地を東京都に寄付したり、保険会社に土地を交換したりしたことと、鉄筋コンクリート(鉄筋入混凝土)の玉垣を造成したことなどが書かれています。
 戦後の発展に伴って道路の拡幅工事が行なわれ、この小さな神社がどう変化したかがうかがえます。
 尚、碑文中にて言及されている社号標も解読しました。

六所神社御造營記念碑(給田六所神社)

 東京都世田谷区の給田六所神社にある、六所神社御造營記念碑を解読してみました。

六所神社御造營記念碑

【碑文】
(表)
六所神社御造營記念碑
 
元御社殿は明治二十四年十一月御造営
されたもので長い年月を経相当老朽化
した為役員一応協議の末新たに御造営
致すことになり平成元年池亀得壽名誉
宮司の元に六所神社御造営建設委員会が
発足共に稲荷神社観音堂も御造営す
氏子崇敬者多くの奉賛をもって平成三年
十月遷座祭同年十一月竣工奉祝祭を
齋行す
本殿三十二坪 稲荷神社二・二五坪 観音堂六・二五坪
 平成四年九月吉日建之
  六所神社 宮司 池亀紀文
 
六所神社御造営建設委員会役員
建設委員長 池亀武徳
同副委員長 宍戸佳啓
同     高橋正吉
同     池亀国男
常任委員  池亀重通
同     古谷栄作
同     池亀一男
同     松岡孝作
同     田中儀三郎
同     麻生則行
(※以下、氏名多数につき、これを省略)
 
 設計   新川一級建築士事務所
 施工   有井建設株式会社
 石材工事 株式会社坂入組
 土建工事 有限会社池亀土建
 木工工事 有限会社給田工務店
         古谷榮作謹書

(裏)
六所神社稲荷神社観音堂御造営奉賛者御芳名 敬称略
壱百萬円 麻生則行
同    池亀一夫
同    池亀国男
同    池亀賢二
同    池亀重通
同    池亀武徳
同    池亀紀文
同    池亀英夫
同    池亀平四郎
同    池亀喜久
同    池亀保夫
(※以下、氏名・法人名多数につき、これを省略)
 
 銅板屋根奉納者三百六拾壱名 五百二拾枚

 碑文中にある池亀得壽の名前に見覚えがあったので調べてみたら、「鈴木文次郎表彰碑(八幡山八幡社)」「烏山神社記念碑(烏山神社)」において、池亀得寿という表記でそれぞれの神社の宮司として名前が記載されていました。これはつまり、この人物が複数の神社の宮司を兼務していたことを示しています。

 それから、碑文の出来事を年代順にまとめてみました。

明治24年(1891年)   元御社殿を造営。
平成元年(1989年)    新社殿等造営開始。
平成3年(1991年)10月 遷座祭。
平成3年(1991年)11月 竣工奉祝祭。
平成4年(1992年)9月  この碑を建てる。

みのり像(JA東京中央千歳支店)

 東京都世田谷区のJA東京中央千歳支店にある、みのり像の碑文を解読してみました。

みのり像

【碑文】
(台座・正面)
みのり

(台座・左面)
千歳農協創立20周年記念
 昭和43年3月吉日建立

 昭和43年(1968年)3月は、ベトナムでソンミ村虐殺事件が起こっています。

自然と文化の散策路の碑(国立市の大学通り)

 東京都国立市の大学通りにある、自然と文化の散策路の碑を解読してみました。

自然と文化の散策路の碑

【碑文】
(正面)
くにたち 自然と文化の散策路案内図
(※地図。省略)
 
北大通り~国立駅~大学通り(新東京
百景)緑地帯の桜とイチョウ並木~
谷保駅~谷保天満宮

(左面)
自然と文化の散策路

(右面)
まちの緑と学問の道コース

(背面)
平成四年七月
国立市

 新東京百景とは、1982年10月1日に東京都が選定した100の景色。他には国会議事堂や等々力渓谷などが指定されています。
 それから、大学通りには一橋大学のキャンパスがあり、谷保天満宮の祭神は学問の神様・菅原道真。「学問の道」はそれらにちなんだものと思われます。

『なぎさ No.650』京浜急行電鉄株式会社

 表紙を飾るのは歴史学者のフレデリック・クレインス。ドラマ「SHOGUN 将軍」の時代考証をした人です。本誌の「特集 按針塚駅~逸見駅 ドラマ『SHOGUN 将軍』 “青い目のサムライ”ゆかりの地へ」(P3-8)では三浦按針(ウィリアム・アダムス)ゆかりの地を探訪。
 本記事を読んで、数年前に彼の石碑を解読したのを思い出しました。

史蹟三浦按針屋敷跡の碑(按針通り)

 本誌で取り上げられている浄土寺や鹿島神社にも石碑がありそうだなあ。

なぎさ No.650

『ねりま区報 令和7年(2025年)4月11日 第2076号』練馬区

 本紙1面に「第38回 照姫まつり」の告知あり。2025年4月20日(日)に、石神井公園(東京都練馬区)とその周辺にて照姫まつりを開催とのこと。
 照姫とは誰か? 本紙に答えが書いてありました。

照姫伝説…室町時代中期、太田道灌に攻められて石神井城が落城した際、城主・豊島泰経と共に娘の照姫が三宝寺池に入水したといわれています。(1面)

 石神井公園には殿塚と姫塚がありますが、姫塚の主の名前が照姫ということですか。おそらく後世に付けられたものでしょうが(この時代の女性の名前は不明なことが多い)、ともかくも照姫という名前が付いているので照姫と呼ぶことにします。
 ところで、私は数年前に石神井公園を訪れて石碑を少々解読したのですが、当時は知識不足により殿塚と姫塚は見過ごしていました。本記事を読んでそのことを思い出しましたわ。

ねりま区報 令和7年(2025年)4月11日 第2076号

【関連記事】
石神井城址とこの記念碑についての碑(石神井公園)
石神井城阯史蹟碑(石神井公園)

毘沙門天像(浄運寺)

 東京都町田市の浄運寺にある、毘沙門天像の碑文を解読してみました。

毘沙門天像

【碑文】
(台座・正面・上)
   毘沙門天(びしゃもんてん)
 福寿増長の神。仏教守護神四天王の一人で、常に
仏の道を護り説法を聞く故に「多聞天(たもんてん)」
とも云われます。
 また、“戦いの神”として武将にも崇敬されました。
              平成20年 原町田・七福会

(台座・正面・下)
恵比寿神(商売繁盛)――町田天満宮
            そうほいん
布袋尊(家庭円満)―――宗保院
            しょうらくじ
寿老人(不老長寿)―――勝楽寺
福禄寿(財宝守護)―――町田商工会議所
            じょううんじ
毘沙門天(福寿増長)――浄運寺
            もちおじんじゃ
弁才天(芸術財福)―――母智丘神社
大黒天(五穀豊穣)―――小田急東口広場
 
町田市の中心商業地「原町田商店街」は天正15年(1587)に開設された「二の市」が天保年間に六斎市「二・六の市」となり、諸物資の集散地として繁栄の基盤が築かれました。
 安政6年(1859)の「横浜開港」により、輸出品の花形「生糸」が運ばれた“絹の道”の中継地として発展し今日に至っています。
 昭和33年(1958)に誕生し“市制施行50周年”を迎えた「町田市」と、歴史と伝統を有する「原町田商店街」の隆盛発展を祈念し、原町田地区内に福徳の神「七福神」を祭祀しました。
                     平成20年 原町田・七福会

 浄運寺の境内の四阿には毘沙門天のスタンプが設置してあるのですが、その毘沙門天はデザインが簡略化されています。一方、こちらの毘沙門天像はそのスタンプほどではないものの簡略化が目に付きます。

【原町田七福神関連記事】
大黒天像(町田駅小田急東口広場)
弁財天像(母智丘神社)

愛を幸福を発展をの碑(きらぼし銀行町田支店)

 東京都町田市のきらぼし銀行町田支店にある、愛を幸福を発展をの碑を解読してみました。

愛を幸福を発展をの碑

【碑文】
(正面)
愛を幸福を発展を
 
昭和61年11月
八千代信用金庫
理事長 新納太郎

(右面)
平成三年四月一日
八千代銀行に転換

 八千代信用金庫は、1991年(平成3年)に八千代銀行に転換し(本碑右面にその記述あり)、2018年(平成30年)に東京都民銀行・新銀行東京と合併してきらぼし銀行となっています。きらぼし銀行の敷地に八千代信用金庫の石碑があるのは、そういった経緯があるからです。

大黒天像(町田駅小田急東口広場)

 東京都町田市の町田駅小田急東口広場にある、大黒天像の碑文を解読してみました。

大黒天像

【碑文】
(台座・正面)
   大黒天(だいこくてん)
 五穀豊穣の神。密教では大自在天の化身で、インドの民族
宗教では“シバ神”の異名で万物創造の最高神と云われます。
 中国に伝えられてから漢訳し“大黒天”となりましたが、日本
では神代・出雲国の主神「大国主命(おおくにぬしのみこと)」と
習合し、民間信仰に浸透して「恵比寿神」と共に祀られます。
               平成20年 原町田・七福会

(台座・左面)
   原町田・七福神
恵比寿神(商売繁盛)――町田天満宮
布袋尊(家庭円満)―――宗保院
寿老人(不老長寿)―――勝楽寺
福禄寿(財宝守護)―――町田商工会議所
毘沙門天(福寿増長)――浄運寺
弁才天(芸術財福)―――母智丘神社
大黒天(五穀豊穣)―――小田急東口広場
 
 町田市の中心商業地「原町田商店街」は天正15年(1587)に開設された「二の市」が天保年間に六斎市「二・六の市」となり、諸物資の集散地として繁栄の基盤が築かれました。
 安政6年(1859)の「横浜開港」により、輸出品の花形「生糸」が運ばれた“絹の道”の中継地として発展し今日に至っています。
 昭和33年(1958)に誕生し“市制施行50周年”を迎えた「町田市」と、歴史と伝統を有する「原町田商店街」の隆盛発展を祈念し、原町田地区内に福徳の神「七福神」を祭祀しました。
                     平成20年 原町田・七福会
 
秋山初蔵・大野厚市・五十嵐隆・石井朋男・石井幸隆・109町田(※以下、氏名・法人名多数につき、これを省略)

 こちらの大黒天像の台座には、スポンサーの氏名が記されていました。109町田って、町田に109があったのか。
 それから、碑文にあるシヴァ神の異名とはマハーカーラで、マハーは「偉大な」、カーラは「暗黒」という意味があり、そこから大黒と漢訳されたとか。又、大黒も大国も共に音読みはダイコクであることから大黒天と大国主命は習合したそうな。

【原町田七福神関連記事】
毘沙門天像(浄運寺)
弁財天像(母智丘神社)

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