木村新左衛門紀念碑(川崎大師)
神奈川県川崎市幸区の川崎大師にある、木村新左衛門紀念碑を解読してみました。尚、この碑の裏側に回ることはできなかったので、表側だけ解読してみました。
【碑文】
紀念碑
木村新左衛門大師河原人以天保十四年生矣家業工
匠天資勤勉技能卓絶名聲夙高明治廾一年隆健僧正
發願大樓門之建立推氏爲棟梁也氏承命感激乃齋戒
沐浴日夜勵精以膺斯大業明治卅五年工告成時貫主
隆運僧正特犒賞授一巻洵可謂一世之榮譽也明治卅
七年晩春以六十二歳歿焉諡號義道一貫居士矣爾後
廾有餘年大正之大震雖極強烈山門依然嚴聳毫不損
舊觀牢而如磐石焉氏之技術非凡依之益顯頃者門弟
等輓近慨師道墜地欲傳斯洪業於百世一以彰氏之遺
功一以裨世道人心觀斯美擧可知建碑非偶然也
樓頭松籟鏘響太扉 金剛殿額炳燿朝暾
潜思于茲竭力于茲 休哉工匠爾名永高
維時昭和五年仲秋
金剛山第四十三世僧正隆超撰
當所
石匠 竹内喜助[印][印]
【読み下し文】
木村新左衛門は大師河原の人なり。天保十四年を以て生まる。家業は工匠にして天資は勤勉、技能は卓絶し名聲は夙(つと)に高し。明治廾一年隆健僧正大樓門の建立を發願し、氏を推して棟梁と爲すなり。氏、名を承りて感激の齋戒沐浴をし、日夜勵精、以て斯の大業に膺(あ)たる。明治卅五年、工成るを告げし時、貫主隆運僧正特に犒(ねぎら)い賞して一巻を授く。洵(まこと)に一世の榮譽と謂うべきなり。明治卅七年晩春、六十二歳を以て歿す。諡號は義道一貫居士。爾る後に廾有餘年、大正の大震極めて強烈と雖も山門依然として嚴と聳え、毫も損ぜず。舊觀牢にして磐石の如し。氏の技術非凡なること、これによりて益(ますます)顯(あきらか)なり。頃者(けいしゃ)、門弟等、輓近は師の道の地に墜(お)ちる慨(なげ)き、百世に斯の洪業を傳えんと欲す。一は氏の遺功を彰するを以てし、一は世道人心に裨するを以てす。斯の美擧は偶然にあらざるを碑を建てて知るべきなり。
樓頭の松籟鏘として太扉に響く 金剛殿の額は朝暾に炳燿す
ここに潜思しここに竭力す 休なるかな工匠、爾(なんじ)の名は永く高からん
維時昭和五年仲秋
金剛山第四十三世僧正隆超撰
【現代語訳】
木村新左衛門は大師河原の人である。天保14年(1843年)に生まれた。家業は大工で生まれつき勤勉であり、技能は卓絶して名声がとても高かった。
明治21年(1888年)、隆健僧正(第39世)が大樓門の建立を発願し、氏を推薦して(大樓門建築の)棟梁とした。氏は名を承り、感激の斎戒沐浴をし、日夜精勤。それによってこの大事業に当たった。明治35年(1902年)、工事が完成することとなった時に、貫首隆運僧正(第41世)は特にねぎらい、一巻の表彰状を授けた。まことに一世の栄誉というべきである。
明治37年(1904年)の晩春に、62歳で死去。戒名は義道一貫居士。
その後に20数年、関東大震災(1923年)は極めて強烈であったが、山門は依然として立派にそびえ立ち、少しも損傷しなかった。見た目は堅牢で磐石のようであった。氏の技術が非凡であることは、これによってますます明らかとなったのである。
近頃、門弟たちが、「最近は師の評判が落ちた」と嘆き、永く大事業を伝えようとした。一つは師の遺した功績を表彰することによって、そしてもう一つは世間の人たちの心に利益となることによって。この快挙は偶然によるものではないことを、石碑を建てることで知るべきである。
建物の上部に吹く松風の音は鏘として大きな扉に響く
金剛殿の扁額は朝日に照り輝く
ここに心を凝らして考え、ここに力を尽くして当たる
安らかに眠れ大工よ、汝の名声は永く高いであろう
時に昭和5年(1930年)仲秋
川崎大師第四十三世貫首隆超撰文
大工・木村新左衛門(1843-1904)の顕彰碑。紀念は記念に同じ。
石碑の裏側は確認できませんでしたが、おそらくは「門弟等」の発起人や石碑建立の資金を拠出したスポンサー等の名前が書いてあるものと思われます。
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