感舊之碑(護国寺)
東京都文京区の護国寺にある、感舊之碑を解読してみました。
【碑文】
(表)
感舊之碑
文久癸亥秋八月 闕下變起三條公与同志
者會妙法院議後圖慨然西下倚毛利氏後移
大宰府糺合志士奨勵列藩四方歸心會
今上踐祚召還復位擢爲輔相乃賛襄 宏猷
二十四年如一日實爲中興元勲而天下〇(※後述)遺
溘焉長逝
天子震悼輟朝三日海内莫不痛惜況与公共
艱難者乎因建碑墓前以表感舊之情云〇(※∧に小)
明治二十五年八月
(裏)
正三位勲二等侯爵 四條隆謌
從二位勲一等伯爵 東久世通禧
正三位勲三等伯爵 壬生基修
從二位勲一等子爵 土方久元
從三位勲一等子爵 清岡公張
從三位勲二等 尾崎三良
從三位勲二等 南部甕男
正六位 渡邊徹
從六位勲六等 黒岩直方
從六位勲六等 小藤孝行
從七位 中邨政房
從七位 丸茂文興
【読み下し文】
文久癸亥八月、闕下に変起こり三條公と同志は妙法院に会し、後図を議す。慨然として西下し毛利氏に倚(よ)り、後に太宰府に移り志士を糾合して列藩を奨励し四方より帰心して会す。
今上践祚し、召還して復位し、擢(ぬきん)じて輔相の賛襄と為す。宏猷(こういう)二十四年、一日の如し。実に中興の元勲となりて、天は遺(のこ)すを〇(※後述)(ねが)わず、溘焉(こうえん)として長逝す。
天子震悼し輟朝(てっちょう)すること三日、海内痛惜せざるなし。いわんや公と共に艱難せる者においておや。因りて墓前に碑を建てて以て感旧の情を表わすと云う。
明治二十五年八月
【現代語訳】
昔に思いを馳せる石碑
文久3年(1863年)秋8月、八月十八日の政変が起こり、三条実美公と同志は妙法院に集まって善後策を話し合った。嘆き悲しんで西に下り、毛利氏(長州藩)を頼り、後に太宰府に移り、(維新の)志士を糾合して諸藩に働きかけ、各方面から(同志が)心を寄せて会いに来た。
今上天皇(明治天皇)が践祚(天皇位を継ぐこと)し、(三条実美を)呼び戻して元の地位に戻し、更に宰相の補佐に抜擢した。大きなはかりごと(明治維新)をして24年、あっという間であった。王政復古の元勲となったのだが、天は(彼をこの世に)残しておくことを望まず、(彼は)急死した。
(明治)天皇は驚き悲しみ、3日間服喪して政務を執らず、国内には(彼の死を)嘆き悲しまない者はいなかった。(実美)公と共に苦難を味わった者は言うまでもない。そこで墓前に石碑を建てて、それによって昔に思いを馳せる気持ちを表現する。
明治25年(1892年)8月
まずは碑文の文字について。私は下記の文字を「闕」と読みましたが、これには正直言って迷うところがなきにしもあらず。
それから、(※後述)の字は以下の通り。
次に、碑文の内容について。漢文の冒頭は文久3年(1863年)に起こった八月十八日の政変(文久の政変)で、その後はそれに引き続いて起こった七卿落ち(三条実美ら7人の公卿が都落ちした事件)が述べられています。ちなみに石碑裏面に名前を列記している者の内、四條隆謌、東久世通禧、壬生基修が七卿落ちのメンバーです。
それから輟朝(てっちょう)とは君主が喪に服して政務を執らないことで、三条実美が死んだ時に明治天皇はこれを行なったとわざわざ書いています。つまりこの記述は、三条実美がそれだけの大物だったんだぞとアピールしているようなものです。
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