東京都千代田区の皇居外苑にある、楠木正成像を解読してみました。
【碑文】
(台座)
明治二十九年
東京美術學校製作
彫型主任
東京美術學校教授
正七位 高村光雲
(※中略)
自臣祖先友信開伊
豫別子山銅坑子
孫繼業二百季亡
兄友忠深感國恩
欲用其銅鑄造楠公
正成像獻之闕下
蒙允未果臣繼其志
董工事及功竣謹獻
明治三十年一月
従五位臣住友吉左衛門謹識
(足元)
楠木正成像
Statue of Kusunoki Masashige
楠木正成(くすのきまさしげ)は鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて
後醍醐天皇(ごだいごてんのう:1288~1339年)に仕えた武将です。鎌倉
幕府を倒し、約150年の武家政権から、朝廷による支配の復活を図りました。
この銅像は、隠岐(おき)から還幸した後醍醐天皇を兵庫で迎えた
楠木正成の雄姿を象ったものです。
This bronze statue is of Kusunoki Masashige, a samurai
regarded as a paragon of loyalty to the Imperial Family.
This statue represents Kusunoki awaiting the return in 1333 of
the Emperor Go-Daigo(1288~1339) from exile in the Oki islands
in the Sea of Japan.
Kusunoki was a brilliant strategist who defeated the Kamakura
shogunate in 1333, allowing the Emperor to restore Imperial
rule, albeit briefly, after almost 150 years of samurai rule.
別子(べっし)銅山は愛媛県新居浜市にあった銅山で、開山は1691年、閉山は1973年。友信は住友家の第3代当主。友忠は第13代当主。
それから吉左衛門の名は住友家の当主が代々名乗っているもので、ここの吉左衛門は第15代当主の住友友純(ともいと)(1865-1926)。
さて、それでは漢文を訳してみることにしました。
【読み下し文】
臣の祖先友信、伊予別子山の銅坑を開きてより、子孫業を継ぐこと二百季。亡兄友忠深く国恩を感じ、その銅を用いて楠公正成像を鋳造しこれを闕下に献ぜんと欲す。允を蒙(こうむ)りていまだ果たさざるに臣その志を継ぎ、工事を董(ただ)し、及びに功竣して謹んで献ず。
明治三十年一月
従五位臣住友吉左衛門謹んで識す
【現代語訳】
私の祖先・(住友)友信が、伊予の別子銅山を開いてから、子孫が事業を継承して200年(が経った)。亡兄の友忠は国家の恩を深く感じ、その(別子銅山の)銅を用いて楠木正成像を鋳造してこれを宮門の下に献上しようとした。承認されて事業が完遂していなかったのを、私がその志を継いで、工事を監督し、そして竣工して謹んで(銅像を)献上する。
明治30年(1897年)1月
従五位臣住友吉左衛門(友純)謹んで識す。
漢文を読んで思ったのは、「下手くそな漢文だな」ということです。而や矣、也は見当たらないし、「闕下」の前に「於」くらい欲しいところです。
それから、楠木正成についての英文の説明と日本語の説明が若干異なっていて、その辺の考察をしてみるのも一興なのですが、長くなってきたのでこれくらいにとどめておきます。
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