討薩記念碑(護国寺)
東京都文京区の護国寺にある、討薩記念碑を解読してみました。尚、この石碑の題額には「紀念碑」とあるだけなのですが、グーグルマップで調べてみたら「討薩記念碑」とあったのでそれに従いました。
【碑文】
(表)
紀念碑
討薩之役東京警視第四方面第四分署警部巡査從軍死之者
二十人同僚悼之建記念碑於小石川音羽護國寺以表其忠徴
余銘余曩應東京各區長請作招魂碑文況於同區内警視分署
官僚之請豈可得辭哉銘曰
不有死者 何得克敵 士卒善戰 將帥有績
死者無憾 甘盡其職 同僚有情 曷勝哀〇(※1)
惟時明治 十年丁丑 西南戰雲 白日昏〇(※2)
大敵環攻 孤城堅守 将士合志 忍苦持久
官出救兵 警視聯隊 敵占要害 我失地利
屢經敗衄 勇気益振 自春渉秋 勝負未分
砲丸雨注 火光燭夜 營壘互奪 血肉枕藉
我軍節制 師出以律 抜刀奇兵 神出鬼没
植木田原 遂摧阻險 圍城脱危 勁敵喪膽
自是百戰 勢如破竹 三軍凱旋 風塵靖粛
雖曰天意 亦由人力 戰死有功 可不追憶
爽〇(※3)擇地 寺曰護國 刻銘貞珉 千秋不〇(※4)
二品勲一等親王東伏見嘉彰題額
明治十三年一月二十八日東京小石川區 中村正直撰并書
井龜泉刻
(裏)
戰死人名
緒方惟典
狩野山弼成
喜多川亀太郎
八重盛政尊
高橋常太郎
永井房之進
川北悌介
遠山餘三郎
小林明躬
常木廣順
上野昇太郎
三枝道廣
福井正利
山口作次郎
岩崎中
和田正一
籠谷楯蔵
安樂正之助
本郷雅郎
関口孝久
東京警視第四方面第四分署員
圓乗豁
田中久勝
鈴木清聰
三澤潤次郎
竹内實正
上石保直
(※以下、氏名多数につき、これを省略)
【読み下し文】
討薩の役の東京警視(庁)第四方面第四分署警部・巡査の従軍して死す者は二十人。同僚これを悼み、小石川音羽護國寺に記念碑を建て以てその忠の徴を表わす。余銘す。余曩(さき)に東京各区長の請うるに応じて招魂碑の文を作る。況や同区内の警視分署官僚の請うるにおいて、あに辞するをうべけんや。銘に曰く、
死者あらざれば、何ぞ敵に克ち得る。士卒善戦し、将帥績あり。
死者憾みなく、甘んじてその職に尽くす。同僚情あれば、曷(なん)ぞ哀〇(※1)(あいせき)に勝(た)える。
時に明治十年丁丑。西南の戦雲、白日昏〇(※2)(こんゆう)す。
大敵環攻し、孤城堅守す。将士志を合わせ、忍苦して持久す。
官は救兵を出だし、警視連隊は敵の要害を占め、我は地の利を失う。
しばしば敗衄を経て、勇気ますます振るい、春より秋に渉り、勝負いまだに分かたず。
砲丸雨と注ぎ、火光は夜を燭す。営塁互いに奪い、血肉枕藉す。
我が軍節制して、師出づるに律を以てす。抜刀奇兵、神出鬼没。
植木田原、遂に阻険を摧く。囲城危を脱し、勁敵胆を喪う。
これより百戦、勢い破竹の如し。三軍凱旋し、風塵靖粛たり。
天意を曰うといえども、また人力に由る。戦死して功あれば、追憶せざるべし。
爽〇(※3)地を択び、寺曰く護國と。貞珉に銘を刻み、千秋に不〇(※4)(ふろく)す。
二品勲一等親王東伏見嘉彰題額。
明治十三年一月二十八日東京小石川区 中村正直撰并びに書。
井亀泉刻む。
【現代語訳】
西南戦争において、東京警視庁第四方面第四分署の警部・巡査で従軍して死んだ者は20人である。同僚らがこれを悼み、小石川区音羽の護国寺に記念碑を建てて、それによって忠義のしるしを表彰する。私が銘を書くことになったのだが、私はこれ以前に東京の各区長の要請に応じて招魂碑の文章を作っている。だから同区内の警視分署の役人からの(同様の)要請を辞退できるわけがない。銘にはこうある。
死者が出なければ、どうして敵に勝てるだろうか。兵士は善戦し、将校は功績がある。
死者に恨みはなく、甘んじてその職責を全うした。同僚は情があるから、どうして悲痛感傷の念に耐えられようか。
時に明治10年(1877年)丁丑(ひのとうし)、西南の戦雲は明るい太陽をどんよりと薄暗いものにした。
強大な敵が包囲して攻め、孤立した城は堅く守る。将校と兵士は心を合わせ、耐え忍んで持久戦となった。
政府は援軍を出し、警視連隊が敵の要害を占拠。我々は地の利を失い、
幾度か敗北を喫するも、勇気をますます振るって、春から秋にかけて、勝負はまだ付かなかった。
砲弾が雨と注ぎ、火光が夜を照らす。陣地を互いに奪い合い、血と肉が折り重なった。
我が軍は節度を守り、規律ある軍を出した。抜刀した奇兵が神出鬼没(に戦った)。
植木の田原(坂)で、遂に険阻な防御を突破。包囲されていた城は危機を脱し、強敵は戦意喪失した。
それから百度戦い、破竹の如き勢い(で勝った)。三軍は凱旋し、騒がしさもおさまった。
(勝利は)天意であるといえども、同時にまた人の力によるものである。(彼らは)戦死したが功績があるので、追憶しないのが当然である。
さっぱりとした高台の地を選んで、護国寺という。石碑に銘を刻んで、千年にわたって壊れないように。
二品勲一等親王・東伏見嘉彰題額
明治13年(1880年)1月28日、東京・小石川区 中村正直撰文・書
井亀泉刻む。
西南戦争では警視庁からも人を出して従軍し、戦死者を出しました。この石碑はその戦死者を追悼すると共に、彼らを顕彰しています。
さて、碑文の語句についていくつか解説を加えておきます。
「討薩」の薩は薩摩で、西南戦争の反乱軍の主力が旧薩摩藩の士族であり、彼らの拠点が旧薩摩(廃藩置県によってこの時点では鹿児島県)にあったことを考え合わせると、なるほどそんな表現もあるのかと思いました。
それから「大敵環攻 孤城堅守」というのは熊本城が包囲されたものの谷干城や樺山資紀らが率いる熊本鎮台が「忍苦持久」して敵の猛攻に耐えたことを指します。又、その後に出てくる「圍城脱危」の城も熊本城であることは言うまでもありません。
「植木田原」は、西南戦争屈指の激戦である、田原坂(たばるざか)の戦いを指すものと思われます。田原坂は植木というところにあります。
「爽〇(※3)」の爽はさっぱりした、〇(※3)は高台の意。この石碑は護国寺の本堂の近くに立っているのですが、なるほど確かにここはそんなところだなと思い至りました。実際、高台の上にあるし、周囲もあまりごちゃごちゃしていない。
それから、題額(この場合は上部の「紀念碑」)を書いた東伏見嘉彰とは後の小松宮彰仁親王であり、西南戦争には旅団長として出征しています。中村正直は教育者で、『自助論』で「天は自ら助くる者を助く」と訳したことで有名。
他にも解説を加えた方がいい語句がなきにしもあらずといったところですが、長くなってきたのでこれくらいにとどめておきます。それから、私の読解力不足により現代語訳が怪しいと自分でも思う箇所がありますが、これもとりあえずそのままにしておきます。
ともあれ、それだけの難しさのある碑文だと言えます。
【西南戦争関連記事】
・半次郎
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