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加々美鎌吉顕彰碑(下祖師谷神明社)

 東京都世田谷区の下祖師谷神明社にある、加々美鎌吉顕彰碑を解読してみました。尚、この碑には題額などのタイトルを示すものが見当たらなかったため、私が碑文の内容を踏まえてタイトルを付けました。

加々美鎌吉顕彰碑

【碑文】
(表)
嗚呼一兵一卒而已其忠烈勇貞如加々美鎌吉者誠足爲後進之範矣鎌吉祖師
谷人也家世業農幼而從父從事耕耘敢不倦怠四隣称其孝矣明治三十六年十
二月徴爲砲卒編入野戰砲兵第十四聯隊時東亜之風雲漸急也鎌吉以爲報國
時至益奮勵而修技矣三十七年春日露之國交斷絶也鎌吉屬第一中隊航海而
抵盛京省一角五月陥南山六月抜蓋平毎戰有功七月二十三日我軍乗夜渉蓋
平河黎明布陣大平庄露軍懲前敗高壘深塹而不出備砲山陰林後三面叢射其
勢甚熾也我砲兵又應射之砲戰不相下自晨至夜爆煙漲大砲聲動地時正隆暑
士卒皆苦渇大隊長以下死傷甚多鎌吉爲二番砲手冒彈雨毅然續行其職遇一
彈破裂身前尺余貫胸部忠魂長歸天即日進一等卒擧隊莫不悼惜焉鎌吉一兵
卒耳入而則爲良民出而則爲忠臣能全其本分而垂範後世死亦可謂無憾矣頃
日郷閭之有志相謀相地於神明社之傍建碑而欲傳其蹟于不朽來需文吾識鎌
吉不淺以不文不得辭獨憾筆路生硬而不盡其真耳
明治三十九年四月
     陸軍砲兵大尉正七位藤堂大輔撰   佐野豊行書

(裏)
發起人
陸軍 歩兵 軍曹 勲七等 田中錠吉
同  歩兵 軍曹 仝七等 福田金蔵
同  歩兵一等卒 仝八等 内海兼蔵
同  歩兵一等卒 仝八等 田中長蔵
同  歩兵一等卒 仝八等 長澤辯次郎
野戰 砲兵一等卒 仝八等 加々美龍吉
近衛 歩兵一等卒 仝八等 矢島彦太郎
陸軍 歩兵一等卒 仝八等 安藤酉蔵
同  歩兵一等卒 仝八等 加々美吉五郎
近衛 騎兵二等卒     内海寛一
陸軍輜重兵二等卒     田中藤太郎
同    看護卒     佐野昌隆
(中略)
日清從軍者 田中吟蔵
西南從軍者 横山留五郎

田中錠吉書

  高津村字二子
   石工 小俣庄右エ門刻

【読み下し文】
嗚呼一兵一卒にして已にその忠烈勇貞なる加々美鎌吉の如き者は誠に後進の範たるに足れり。鎌吉は祖師谷の人なり。家は世々農を業とし、幼にして父に従い耕耘に従事して敢えて倦怠せず。四隣その孝を称える。明治三十六年十二月に徴せられて砲卒となり、野戦砲兵第十四聯隊に編入す。時に東亜の風雲漸く急なり。鎌吉は以て報国たらんとして時に至り益々奮励して技を修む。三十七年春、日露の国交断絶なり。鎌吉第一中隊に属し、航海して盛京省の一角に抵(あた)り、五月に南山を陥とし六月に蓋平を抜く。毎戦功有り。七月二十三日我が軍夜に乗じて蓋平の河を渉り、黎明に大平庄に布陣す。露軍前敗に懲りて塁を高くし塹を深くして出でず、山陰の林と後三面の叢に砲を備え射つ。その勢い甚だ熾(さか)んなり。我が砲兵も又これに応射し、砲戦相下らず晨より夜に至り爆煙漲(みなぎ)り、大砲の声は地を動かし、時は正に隆暑、士卒皆苦渇し、大隊長以下死傷甚だ多し。鎌吉二番砲手となり、弾雨を冒し毅然としてその職を続行す。たまたま一弾身前の尺余に破裂し、胸部を貫く。忠魂長らく天に帰し、即日一等卒に進ぜらる。隊を挙げて悼惜せざるなし。鎌吉一等卒のみ入りてすなわち良民となり、出でてすなわち忠臣となる。よくその本分を全うして後世の範を垂れる。死してまた憾(うら)み無しと謂うべきなり。頃日(ころおい)、郷閭の有志相謀り、地を神明社の傍に相して碑を建ててその蹟を不朽に伝えんと欲す。来りて文を需(もと)めるに、吾、鎌吉を知るに浅からず。以て不文なれども辞すことを得ず。独り憾み筆路生硬にしてその真を尽くさざるのみなり。
明治三十九年四月
     陸軍砲兵大尉正七位藤堂大輔撰   佐野豊行書

【現代語訳】
 ああ一兵卒にして忠義の心篤く勇敢な加々美鎌吉のような者は、後進の模範となるに充分である。鎌吉は祖師谷の人である。家は代々農業をしていて、彼は幼くして父に従い耕作に従事して怠けることがなかった。近所の者はその親孝行ぶりを称賛した。
 明治36年(1903年)12月、徴兵されて砲兵となり、野戦砲兵第14聯隊に編入される。この時、東アジアの情勢は緊迫していた。(明治)37年(1904年)春、日露の国交は断絶した。鎌吉は第一中隊に属し、海を渡って(中国の)盛京省に行き、5月に南山を攻め落とし、6月に蓋平を攻め落とした。戦闘の度に功績を上げた。
 7月23日、我が軍が夜に乗じて蓋平の河を渡り、明け方に大平庄に布陣した。ロシア軍は前の敗戦に懲りて土塁を高くし塹壕を深く掘って出てこず、山陰の林と後ろ三面の草むらに大砲を配備して射ってきた。その勢いはとても熾烈だった。我が軍の砲兵も応射し、砲戦は朝から夜まで続き、爆煙は充満し、大砲の音は大地を振動させ、ちょうど盛暑の頃、士卒は皆難儀し、大隊長以下の死傷者がとても多かった。
 鎌吉は二番砲手となり、砲弾の雨の中で毅然としてその職務を続行した。偶然にも一発の砲弾が(彼の)体の近くで破裂し、胸部を貫いた。(鎌吉の)忠魂は長らく天に帰り、その日の内に一等卒に進級した。隊の中で(彼の死を)悼まない者はなかった。
 鎌吉は一兵卒として(軍に)入って良民となり、死んで忠臣となった。その本分を全うすることができたので後世の模範となった。死んでも恨みはないと言うべきである。
 一方その頃、郷里の有志たちが相談して、場所を神明社の傍に定めて石碑を建ててその功績を伝えようとした。(有志たちが私のところへ)やって来て碑文を依頼してきたのだが、私は鎌吉をよく知っている。そこで、文章はうまくないのだが辞退することができず(引き受けた)。(何でこんなことを引き受けたのだろうと)一人で恨みがましく思い、筆運びがぎこちなくて真実を記し尽くすことができないだけである。
 明治39年(1906年)4月
     陸軍砲兵大尉正七位藤堂大輔撰文・佐野豊行書

 日露戦争に出征して戦死した若者の顕彰碑。無名の「英雄」がこんなところに埋もれていたのを自分は「発見」してしまったのかと思わないでもない。
 それからこちらの碑文は漢文なのですが、書いたのが学者などではなく軍人であるためか、比較的簡潔な表現となっています。その点では現代語訳はやりやすかったです。

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