東京都渋谷区の代々木公園にある、十四烈士の碑を解読してみました。
【碑文】
(中央・表)
十四烈士
自刃之處
昭和廿年八月廿五日早朝
昭和丗四年四月遺族同志建立
(中央・裏)
影山庄平 愛媛縣 (※解読できず)
牧野晴雄 石川縣 (※解読できず)
野村辰夫 鹿児島縣(※解読できず)
藤原仁 廣島縣 (※解読できず)
鬼山保 福岡縣 (※解読できず)
芦田林弘 岡山縣 (※解読できず)
東山利一 熊本縣 (※解読できず)
棚谷寛 茨城縣 (※解読できず)
野村辰嗣 静岡縣 (※解読できず)
福本美代治 鳥取縣 (※解読できず)
吉野康夫 新潟縣 (※解読できず)
津村満好 鳥取縣 (※解読できず)
村岡朝夫 埼玉縣 四十九
野崎欽一 鹿児島縣 二十三
(向かって右手前・表)
大東塾十四烈士自刃之處
昭和二十年八月二十五日早暁 元代々木練兵場の一角なる此の處に於て 塾長代行影山庄平翁以下十八歳の少年に至る十四名の大東塾々生 古式に則り 一齊に壮烈極りなき割腹自刃を遂げ 以て大東亜戰争終戰の大難に殉じ 祖國再建の尊き人柱に立つ
十四烈士共同遺書 清く捧ぐる吾等十四柱の皇魂誓って無窮に皇城を守らむ
影山庄平翁辭世歌 こんとんをひらきて今や天地の始發の時と祈り行くなり
國うれふやたけ心のきはまりて静かなるかも神あがるとき
(向かって右手前・裏)
昭和五十六年八月
遺族並に大東塾・不二歌道會一同建之
(向かって左手前・表)
御名刺受
(背後・表)
建碑由来
十四烈士自刃当時 当地は代々木練兵場で
あったが 米占領軍は進駐直後にこれを接収
将校宿舎ワシントンハイツを建設 日本人の
立入りを禁止した
昭和二十七年講和条約が発効するや影山
正治塾長はこの自刃現場の返還を求めたが
交渉は難航した しかし諸方諸氏の献身的
努力により昭和三十三年に到り 建立する碑の
高さ大きさに制限を付して漸く許可となり 翌
三十四年この碑が建立された
昭和三十九年東京オリンピックに当り この
全域はその選手村として米軍より日本に返還
されその終了後 東京都は代々木公園を造成
開園 漸く日本国民が自由に参拝出来る
やうになった
当地は以上の如き経緯を有するが 建碑に
当っては米軍進駐前に採取した血染の砂が
碑の下に納められてゐる
(背後・裏)
平成十一年八月二十五日
大東塾・不二歌道会建之
碑文の内容を整理すると、大体以下の通り。
昭和20年(1945年)8月15日 終戦。
昭和20年(1945年)8月25日 影山庄平ら14名がここで自刃。
昭和20年(1945年) アメリカ軍が接収。
昭和27年(1952年) サンフランシスコ講和条約が発効。
昭和33年(1958年) 建碑の許可。
昭和34年(1959年)4月 中央の碑を建立。
昭和39年(1964年) 当地が日本に返還される。
昭和56年(1981年)8月 向かって右手前の碑を建立。
平成11年(1999年)8月25日 背後の碑を建立。
中央の碑の裏側は14人の氏名、県名、漢数字が書かれています。14名はここで自刃した者たちで、その下の県名は出身地、漢数字は享年であると思われます。ただ、数字が小さくて撮影に失敗。漢数字の大部分はうまく解読できませんでした。
さて、「あの戦争」において日本の敗北を受け入れられない人たちがいて、港区の愛宕神社で集団自決した事件が起こっていますが、ここ代々木の地でも同様のことが起こっています。
ところで、碑文を読んでみると、「血染の砂」が碑の下に納められているとのこと。愚考するに、そんなものをわざわざ採取しておいて14年後に埋めるとは…これは呪的行為、それも結構きついものでしょうな。
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