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義経宿陣之趾の碑(満福寺)

 神奈川県鎌倉市の満福寺にある、義経宿陣之趾の碑を解読してみました。

義経宿陣之趾の碑

【碑文】
義経宿陣之趾
文治元年(皇紀一八四五)五月源義
経朝敵ヲ平ラゲ降将前内府平宗盛ヲ
捕虜トシテ相具シ凱旋セシニ頼朝ノ
不審ヲ蒙リ鎌倉ニ入ルコトヲ許サレ
ズ腰越ノ驛ニ滞在シ欝憤ノ餘因幡前
司大江廣元ニ付シテ一通ノ〇状ヲ呈
セシコト東鑑ニ見ユ世ニ云フ腰越状
ハ即チコレニシテ其ノ下書ト傳ヘラ
ルルモノ滿福寺ニ存ス
  昭和十六年三月建  鎌倉青年團

 上記の〇の字は以下の通り。

カン

 読みはカン。カン状とは嘆願状のこと。

【現代語訳】
義経が宿陣した所
 文治元年(皇紀1845年=西暦1185年)5月、源義経が朝敵(平家)を討伐して、降伏した武将で前内府の平宗盛を捕虜として連行し(鎌倉へ)凱旋しようとしたのだが、源頼朝に不信感を持たれて鎌倉に入ることを許されず、腰越の地に留まり、不満を募らせた余り、因幡前司・大江広元に一通の嘆願状を送ったと、『吾妻鏡』にある。いわゆる腰越状とはつまりこれのことで、その下書きと伝えられるものが満福寺に存在する。
   昭和16年(1941年)3月建立  鎌倉青年団

 たまたま入手した、『鎌倉殿・13人の重臣 ゆかりの地 周遊マップ』の満福寺の項目に、腰越状に関する記述がありました。そこでその部分を引用します。

当地は源頼朝の不興を被った源義経が逗留した地と伝えられています。義経逗留伝説は江戸時代の資料に見え、弁慶筆といわれる腰越状の写などが残ります。(『鎌倉殿・13人の重臣 ゆかりの地 周遊マップ』)

 「下書」と「写」とでは意味合いが異なりますが、おそらく満福寺に伝わる腰越状には諸説あるのでしょう。
 ちなみに満福寺の境内には義経と弁慶の像があり、そこでは弁慶が腰越状を書いています。しかも、いかつい表情で。
 この像を見ると、弁慶が義経の指示を受けて下書きを書いているようにも見えます。一方、弁慶が義経の目の前で写しを取っているかというと、写しを取るなら近くに原本があるはずですが、そういったものは見当たらないので、そうは見えませんでした。

【参考文献】
『鎌倉殿・13人の重臣 ゆかりの地 周遊マップ』

【源義経関連記事】
江戸歌舞伎「御摂勧進帳(ごひいきかんじんちょう)」
奥富敬之『義経の悲劇』角川書店
尾崎秀樹『にっぽん裏返史』文藝春秋(4)義経の首
浄瑠璃「浄瑠璃御前物語」
浄瑠璃「牛王の姫」
高木卓訳『義経記』河出書房新社(1)
高木卓訳『義経記』河出書房新社(2)
高木卓訳『義経記』河出書房新社(3)
高木卓訳『義経記』河出書房新社(4)
高木卓訳『義経記』河出書房新社(5)
高木卓訳『義経記』河出書房新社(6)
高木卓訳『義経記』河出書房新社(7)
高木卓訳『義経記』河出書房新社(8)
武田静澄著『日本の伝説の旅(上)』社会思想研究会出版部(1)北海道の義経伝説
舞の本「未来記」
源義経公武蔵坊弁慶公之像(白旗神社)
謡曲「鞍馬天狗」
謡曲「舟弁慶」
謡曲「熊坂」
義経松の碑(白旗神社)
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電車での道順| 相州藤沢 白旗神社
伝源義経首洗井戸  神奈川県藤沢市藤沢2丁目
虎の尾を踏む男達

【関連記事】
【鎌倉殿の13人】満福寺 源義経 腰越状【江ノ電の旅】

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