醫王寺再興碑(医王寺)
東京都杉並区の医王寺にある、醫王寺再興碑を解読してみました。
【碑文】
(表)
醫王寺再興碑
當寺は明星山遍照院医王寺と称し 宗祖弘法大師東國巡錫の折相州箱根山にて御製刻の薬師如来像を海星和尚これを請い諸國行脚の砌 霊夢によりて当高井戸の地に錫を止め草庵を結んで日夜尊崇したのが当寺の草創なりと傳わる 当寺の本尊は西向葦野薬師如来と称し医王善逝の悲願と広大無辺の加持力によって衆生の病苦を救済し 就中眼病を平癒せしめ給ふ利益は世人の多く知る所である特に毎年十月十二日を「おめだま」と称して善男善女の参拝する者今尚盛んである
当寺は元関東十一談林(※)の随一石神井三宝寺の末で法統かゞやき当所の鎮守第六天神 烏山白山神社の別当を兼ね寺運誠に隆盛であったが明治初年の廃佛毀釈の影響にて三宝寺へ合併廃寺となり本堂その他の建物は高井戸小学校の前身高泉小学校の校舎に使用さるゝ等極めて悲惨な状態に陥った
尓来五十有余年本尊薬師如来は三宝寺境外佛堂として現地に殘置された薬師堂に安置され荒涼たる廃墟の裡にも如来の薬壺は閉ずることなく参拝する者今猶盛んであった かの大正十二年の関東大地震によって薬師堂は倒壊したが幸にも本尊如来は何ら損傷なく自ら難を避けられこの尊容を拝した檀信徒は益々恭敬の念をおこし医王寺再興の心を盛ならしめた 大正十四年先師三宝寺第卅三世融憲大僧正は檀信徒の懇請を容れ同寺末都下大和村清水成就院の寺号を移して本堂並庫裡を建立して当寺再興の礎を築いた 小納昭和十二年先師の衣鉢を受け当寺に晋住遺業を継承日夜興隆を祈念した 昭和十六年成就院の寺号を元の医王寺に復し 仝年下山富太郎氏等の盡力によって烏山念佛堂を所属し 仝廾五年二十坪余の書院を建立した 次で隣地二百余坪を買入れて境内地を拡張 仝廾九年二階建三十九坪の庫裡に改築した 昭和卅三年七月本堂再建の大事業を計画幸にして檀信徒の絶大なる協力によって総工費壹千余万円の木造瓦葺総檜作りの本堂一宇を建立 讀いて四十余坪の書院をも改築し昭和卅六年十一月十二日を卜して本堂落慶の式典を挙行する運びとなった これによって当寺の面目一新されたがこれ偏に本尊如来の加持力とこれに應える檀信徒の一致挙力の賜物である こゝに落慶入佛の時に当り当寺再興の来由を誌し併せて協力者各位の芳名を刻して後世に傳えるものである
昭和三十六年十一月十二日
医王寺再興第二世 少僧正 興憲誌
(裏)
(解読できず。理由は後述)
※関東十一檀林とも書く。関東における真言宗智山派の僧侶養成機関。三宝寺の他に高尾山薬王院や高幡山明王院金剛寺(高幡不動)などがある。
石碑の裏側は充分な隙間がなかったので、何か書いてあることはかろうじてわかったものの解読を断念。表側の文章から考えるに、医王寺再興に協力してくれた人たちの氏名が書かれているものと思われます。「当寺再興の来由を誌し」は表側の文章に出ていますが、「協力者各位の芳名を刻して」は表側になく、また傍らに芳名碑の類もないので、裏側にあると考えるのが自然なのです。
それから、碑文に書いてある社寺についても少々。石神井三宝寺はいわゆる石神井不動尊(練馬区)のことで、石神井公園の南にあります。第六天神は高井戸第六天神社(杉並区)で、医王寺の北にあります。烏山白山神社は現在の烏山神社(世田谷区)で、医王寺の南西にあります。又、烏山念仏堂は烏山神社のすぐ近くにあり。
最後に、現代語訳を付けておきます。そこまで古めかしい文章ではないと思いますが、少々難解なところが散見されるので、念の為に訳しておきました。
【現代語訳】
『医王寺再興碑』
当寺は明星山遍照院医王寺と称し、宗祖・弘法大師(空海)が東国を巡られた時に相模国箱根で自ら刻んで作った薬師如来像を、海星和尚が請い受けて諸国行脚をしたところ、霊夢によってこの高井戸の地に足を止め、草庵を結んで日夜(薬師如来像を)尊崇したのが当寺の始まりであると伝わっている。当寺の本尊は西向葦野薬師如来と称し、医王善逝(薬師如来)の悲願と広大無辺の加持力によって衆生の病の苦しみを救済し、その中でも眼病を癒すという御利益は世間で広く知れ渡っている。特に毎年10月12日を「おめだま」と称して、善男善女が今でも盛んに参拝している。
当寺は元関東十一談林の随一・石神井三宝寺の末寺で法統が輝き、当所の鎮守・第六天神と烏山白山神社の別当を兼ね、寺は栄えていたのだが、明治初年の廃仏毀釈の影響によって三宝寺へ合併・廃寺となり、本堂その他の建物は高井戸小学校の前身・高泉小学校の校舎に使用されるなど、極めて悲惨な状態になってしまった。
それ以来50有余年、本尊の薬師如来は、三宝寺境外仏堂として現地に残された薬師堂に安置され、荒涼とした廃墟の中であっても如来の薬壺は閉じることなく、参拝する者は多かった。あの大正12年(1923年)の関東大地震(関東大震災)によって薬師堂は倒壊したが、幸いにも本尊の(薬師)如来(像)は全く損傷なく自ら難を避けられ、この尊い姿を拝した檀家信徒はますます尊敬の念を募らせ、医王寺再興の機運が高まった。大正14年(1925年)、先師で三宝寺第33世・融憲大僧正は檀家信徒の熱心な願いを聞き入れて、同寺の末寺で東京都大和村の清水成就院の寺号を移して本堂と庫裡を建立して当寺の再興の基礎を築いた。私は昭和12年(1937年)に先師の教えを継いで当寺に住んで遺業を継承し、毎日(寺が)栄えることを祈念した。昭和16年(1941年)、成就院の寺号を元の医王寺に戻し、同年、下山富太郎氏らの尽力によって烏山念仏堂を(医王寺に)所属させ、昭和25年(1950年)に20坪余の書院を建立した。ついで隣の土地200坪余を買い入れて境内の敷地を拡張。昭和29年(1954年)に二階建39坪の庫裡に改築した。昭和33年(1958年)7月、本堂再建の大事業を計画する。幸いにして檀家信徒の絶大な協力によって総工費1000余万円の木造瓦葺総ヒノキ作りの本堂一宇を建立、続いて40余坪の書院も改築し、昭和36年(1961年)11月12日と日を定めて本堂落慶の式典を挙行することとなった。これによって当寺の面目は一新されたが、これはひとえに本尊(薬師)如来の加持力とこれに応える檀家信徒の一致協力のおかげである。ここに(本堂)落慶・仏像搬入の時にあたり、当寺再興の経緯を記し、更に協力者各位の名前を(石碑に)刻んで後世に伝えるものである。
昭和36年(1961年)11月12日
医王寺再興第2世 少僧正 興憲が記す。
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