狛江亀塚の碑(亀塚古墳公園)
東京都狛江市の亀塚古墳公園にある、狛江亀塚の碑を解読してみました。
【碑文】
(表)
狛江亀塚
蘇峰九十四叟書[印][印]
(裏)
狛江亀塚
古墳之記
亀塚は帆立貝式前方後円墳にして都下唯一例に属す
昭和二十六年以来村は国学院大学教授大場磐雄博士に依
嘱し数字に亙り発掘調査を行いたる結果 墳の周囲に濠
及び埴輪の存在を知り 内部主体は後円部頂上に木炭槨
二基 前方部附近に組合式箱形石棺を安んじ 槨内より
鏡・玉・武器・馬具類等多数を発見せり 就中 中国渡
來の神人歌舞画象鏡と高句麗式文様を毛彫せる金銅飾板
とは最も珍秀とするに足る 蓋し本墳は西紀六世紀頃此
の地に存在せし豪族の墳墓にして 狛江郷の発祥に至大
の関係あるものなるべし 茲に建碑に際し一言由來を記
して後世に傳うると云爾
昭和三十一年九月 狛江町教育委員会
登戸 吉澤石材店刻
【現代語訳】
「狛江亀塚古墳の記」
亀塚は帆立貝式前方後円墳であり、これは都内唯一の例である。昭和26年(1951年)から、(狛江)村は国学院大学の大場磐雄博士に委嘱して、数字にわたって発掘調査をした結果、古墳の周囲に濠及び埴輪があることがわかり、内部は後円部頂上に木炭槨2基、前方部付近に組合式箱形石棺を安置しており、槨内から鏡・玉・武器・馬具類など多数を発見した。その中でも、中国渡来の神人歌舞画象鏡と、高句麗式文様を毛彫りした金銅飾板はとても貴重なものである。しかもこの古墳は紀元6世紀頃にこの地に存在した豪族の墳墓であり、狛江郷の発祥に大いに関係があるのだろう。ここに建碑に際して、由来を一言、述べるものである。
昭和31年(1956年)9月 狛江町教育委員会
登戸 吉澤石材店刻
碑文の「来(來)」という文字は、新字体と旧字体が混在していました。ただ読むだけならどうでもいいのですが、書き写すとなるとややこしくて困る。
さて、この碑を揮毫した蘇峰とは徳富蘇峰(1863-1957)。最晩年の書といったところでしょうな。
それから、碑文中に出てくる大場磐雄(1889-1975)は考古学者。折口信夫の弟子筋か…。
尚、昭和31年(1956年)9月は、横浜市・名古屋市・京都市・大阪市・神戸市が政令指定都市になっています。
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