後藤田正晴夫妻の碑(高野山東京別院)
東京都港区の高野山東京別院にある、後藤田正晴夫妻の碑を解読してみました。
【碑文】
(表)
正三位勲一等旭日大綬章 後藤田正晴
(憲徳院殿東山誠通大居士)
碑
妻 後藤田松子
(恵倫院殿松室智円清大姉)
(台座)
忍耐はすべての
扉を開く
本当に国の将来
未来を切り開こうと
考えるのなら
歴史に正対をしていくぐらいの
覚悟がなくて、どうなりますか
歴史に正対せよ
それだけの国として
また国民としての勇気を持て
道義性を持て
これがいちばん大事だよ
歴史から逃げたらあかん
ということです
(平成十七年五月二十四日 加藤周一氏との対談にて)
一日生涯
後藤田正晴
(裏)
正三位 後藤田正晴は貞永(西暦一二三二年)以前より今鞍の姓で徳島県
麻植郡東山村の地に神霊を祀り、明應二年(西暦一四九三年)、改宗改姓した
佛式後藤田家十五世当主後藤田増三郎忌部信光、妻ヒデの四男として
大正三年(西暦一九一四年)八月九日誕生(幼名誠通)。
昭和十四年東京帝国大学卒業後内務省官吏となり、第二次世界大戦に応召、
昭和二十年松子(通称侑子)と結婚三男一女をもうける。昭和二十一年分家。
復員後復職し昭和四十四年警察庁長官、昭和四十七年内閣官房副長官、
退官後昭和五十一年徳島県から衆議院議員に当選、自治大臣、国家公安委員長、
北海道開発庁長官、内閣官房長官、行政管理庁長官、総務庁長官、法務大臣、
副総理を歴任。政界引退後日中友好に努め、自身の戦争体験から来る平和への
強い思いが一貫した政治信念であった。平成九年勲一等旭日大綬章を叙勲。
平成十七年(西暦二〇〇五年)九月十九日没、享年九十一歳。
松子は天保八申年徳川家斉二十二男松菊君に付き添い蜂須賀家に入った
錦岡院殿を家祖とする岡本家四代当主岡本政助、妻ツルノの四女として
大正十二年(西暦一九二三年)四月三十日徳島市常三島町で誕生、
昭和十七年徳島女学校を卒業後、徳島市寺島町本町の商家吉見家の
養女となる。昭和二十年後藤田正晴に嫁ぎ、内に於いて家庭を守り
外に於いては政治家後藤田正晴を支えた。
平成二十八年(西暦二〇一六年)四月十二日没、享年九十二歳。
(平成二十八年五月追記)
平成十八年三月吉日 二代 後藤田 尚吾 記
後藤田正晴は中曽根政権で官房長官を務めた政治家で、「カミソリ後藤田」と言われました。
さて、碑文を読んでみると、夫妻それぞれの先祖への言及があります。庶民出身の者の顕彰碑ではちょっとお目にかかれないものです。ここには自分たちの先祖を誇るという、一種の名門意識が感じられます。
それから、碑文を記した後藤田尚吾は後藤田正晴の長男。後藤田尚吾の名は同寺の「高野山東京別院縁起の碑」にもあります。
尚、高野山東京別院には後藤田正晴の墓があります。たしか本堂の脇にあったと記憶しております。
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