日本橋の碑(東京都中央区)
東京都中央区にある日本橋の碑を解読してみました。
【碑文】
日本橋由来記
日本橋ハ江戸名所ノ随一ニシテ
其名四方ニ高シ慶長八年幕府諸大
名ニ課シテ城東ノ海濱ヲ埋メ市街
ヲ営ミ海道ヲ通シ始テ本橋ヲ架ス
人呼ンテ日本橋ト稱シ遂ニ橋名ト
為ル翌年諸海道ニ一里塚ヲ築クヤ
實二本橋ヲ以テ起點ト為ス當時既
二江戸繁華ノ中心タリシコト推知
ス可ク橋畔二高札場等ヲ置ク亦所
以ナキニアラス舊記ヲ按スルニ元
和四年改架ノ本橋ハ長三十七間餘
幅四間餘ニシテ其後改架凡ソ十九
回二及ヘリト云フ徳川盛時二於ケ
ル本橋附近ハ富賈豪商甍ヲ連ネ魚
市アリ酒庫アリ雜閙沸クカ如ク橋
上貴賤ノ来往晝夜絶エス富嶽遥二
秀麗ヲ天際二誇リ白帆近ク碧波ト
映帯ス眞二上圖ノ如シ
明治聖代二至リ百般ノ文物日々
新ナル二伴ヒ本橋亦明治四十四年
三月新装成リ今日二至ル茲二橋畔
二碑ヲ建テ由来ヲ刻シ以テ後世二
傳フ
昭和十一年四月
日本橋區
(側面)
日本橋區振興會建設
【現代語訳】
日本橋由来記
日本橋は江戸随一の名所であり、その名は広く知られている。慶長8年(1603年)、幕府は諸大名を動員して江戸城の東の海浜を埋め立てて市街地を造り、東海道を通して初めて本橋を架けた。人呼んで日本橋といい、ついに橋の名前となった。翌年、諸海道に一里塚を築くと、本橋がその起点となった。当時既に江戸の繁華の中心であったことをわからせるように、橋の畔に高札場などを置いた。これもまた理由がなかったわけではない。古い記録を調べてみると、元和4年(1618年)に架け替えられた本橋は長さ37間(≒66.6m)余り、幅4間(≒7.2m)余りで、その後約19回架け替えられたという。徳川幕府最盛期の本橋付近は大金持ちの商人が軒を連ね、魚市場あり、酒蔵あり、その他様々な市場が沸くように出てきて、橋の上は貴賤の別なく往来が昼夜絶えず、富士山の美しい姿が地平線のはるか彼方に見え、(船の)白い帆と青い波が互いに映り合うさまはまさに上図の通りである。
明治時代になって様々な文物が日々新たになるに伴って、本橋もまた明治44年(1911年)3月に新装となり、今日に至っている。ここ橋の畔に碑を建てて(橋の)由来を刻み、それによって後世に伝えることにする。
昭和11年(1936年)4月
日本橋区
(側面)
日本橋区振興会建設
「日本橋由来記」の文章は擬古文であり、しかも句読点や濁点がないので、現代人には少々とっつきにくいところがあります。私にしてみれば、これは「現代語訳してみろ」と言わんばかり。というわけで現代語訳も付けておきました。
それから、碑文中に「魚市アリ」とありますが、そういえば江戸時代には魚市場が日本橋にありましたっけ。その後、時代が下って魚市場は築地へ移転し、更に豊洲へ移転して現在に至っています。
最後に、碑文中の「上圖」とは碑文の上に掲載されているレリーフのこと。写真には撮り忘れましたが、日本橋を題材にした浮世絵をレリーフにしたものだったと記憶しています。
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