昭和四十一年大修覆記念碑(浄真寺)
東京都世田谷区の浄真寺(九品仏)にある、昭和四十一年大修覆記念碑を解読してみました。
【碑文】
(表)
珂然和尚編珂碩上人行業記に曰く
元禄二年六月二十二日珂碩上人疾有り日と共に進む 九月二
十三日高弟珂憶上人河内國より来る 師珂憶上人に告げて曰
く九品佛像造像の本誓已に成就せり 堂宇荘厳志有ちて遂げ
ず 老朽体疲れて今往生の素懐を遂げんとす 汝宜しく建立
せよ 身後の事は皆汝に付嘱す汝それ忽にすること勿れ 又
門人に告げて曰く我が後に珂憶あり憶はわれに異なる所なし
汝等謹みてその教命に従ふべしと 十月七日夜半合掌し弥陀
の宝号を唱し寂す
珂憶上人師の遺命を奉じ力を林碩上人に協せ材木一式を河内玉
手山にて切り舩にて下し元禄十一年十月十五日現本堂三佛堂の
揚棟を成し給えり
閲世二百七十年十方有縁の合力により諸堂の大修築成る これ
を昭和大修築と称しいさゝか祖恩に酬いんとす 即ち昔日の血
汗の御苦労を偲び 之を碑面に刻し以つて記念とす 乞ふ来山
の諸氏弥陀の名号を唱し 恭敬礼拝し給はん事を
昭和四十一年五月七日佛歓喜日
九品仏唯在念佛院浄真寺
第十六世 心誉順碩(花押)
(裏)
昭和四十一年大修覆記念碑
為薬医門復旧
平成二十三年秋彼岸此移設
【拙訳】
(表)
珂然和尚編『珂碩上人行業記』にはこうある。
元禄2年6月22日、珂碩上人は病気になり、日ごとに病状が悪化していった。9月23日、高弟の珂憶上人が河内国より来た。師(珂碩)は珂憶上人に告げて言った。
「九品仏像の製作は成し遂げたが、(像を安置する)堂宇はまだだ。寿命が尽きて死にそうだ。お前が建設しろ。後のことは全て任せる。きっとやりとげてくれ」
又、門人たちに告げて言った。
「私が死んだら次は珂憶だ。憶は私と同じだ。お前たちは(珂憶に)従え」
10月7日夜半、(珂碩上人は)合掌し、南無阿弥陀仏と唱えて遷化された。
珂憶上人は師の遺命を受けて、林碩上人と協力して材木一式を河内玉手山(※)にて切り出し、それを船で運んで、元禄11年10月15日、現本堂・三仏堂の完成を成し遂げた。
それから約270年後、各方面からの協力により、諸堂の大修築ができた。これを昭和大修築と称し、宗祖の恩義に少しでも報いようと思う。そこで昔の血と汗の苦労を偲び、このことを石碑に刻んで、記念とする。参詣に来た皆様、どうぞ南無阿弥陀仏と唱えて礼拝して下さい。
昭和41年5月7日
九品仏唯在念佛院浄真寺
第十六世 心誉順碩(花押)
(裏)
昭和41年大修覆記念碑
薬医門を復旧した。
平成23年秋彼岸、これを移設する。
※大阪府柏原市に玉手山丘陵地帯あり。
前半は『珂碩上人行業記』を引用する形で寺の縁起を語り、後半は昭和41年の修復事業を述べています。これを簡単にまとめると以下の通り。ちなみに、その年の出来事を参考までに付け加えておきます。
元禄2年(1689年)寺の建設計画始動。(松尾芭蕉が『奥の細道』の旅に出る)
元禄11年(1698年)本堂と三佛堂が落成。(勅額火事)
昭和41年(1966年)昭和大修築。(「笑点」放送開始)
平成23年(2011年)この石碑を現在地に移す。(東日本大震災)
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