石神井城阯史蹟碑(石神井公園)
東京都練馬区の石神井公園にある、石神井城阯史蹟碑を解読してみました。
【碑文】
(表)
水鶏鳴き螢に名を得たる當石神井城阯は其昔豊島の豪族代々
此の池を中心に附近一帯を居城となせしが文明九年豊島勘解
由左衛門尉泰経の代に至り長尾景春は管領上杉顕定に叛き武
蔵相模の同志と相謀り兵を興すに及び當城主泰経及平塚城主
なる弟平左衛門尉泰明と共に景春に應じ江戸河越の通路を断
ちしかば江戸在城扇谷上杉定正の臣太田道灌兵を卒て平塚城
を攻め城下に火を放つとの報により泰経直ちに之を救んと當
城并に練馬城の兵を卒て馳向ふ途中江古田ヶ原沼袋にて太田
の軍と遭遇激戦数刻にして遂に泰明及板橋赤塚の一族百五十
有餘名討死す太田勢は時を移さず練馬及當城に攻め入れば豊
島勢善く戦しも衆寡敵せず城遂に陥落す時に文明九年四月十
八日の事なり
星移り物変り春秋を重ぬる事五百回天地の悠久に比すれば人
生蜉蝣の如く興亡転も夢の如し往時を顧る者些なく年経るに
つれ此の郷土の貴き史蹟を忘れらるゝを惜みて之を〇(※1)に〇(※2)し
て後世に傳ふ 社団法人 石神井風致協會建
昭和十二年六月 田中酉蔵撰
(裏)
昭和十二年六月 寄附者 田中酉蔵
※1.左上が臣、右上が又、下が石。
※2.金偏に右上が隹、右下が乃。
【拙訳】
(表)
水鳥が鳴き蛍で有名な当石神井城跡は、その昔、豊島の豪族が代々この池(※3)を中心に付近一帯を支配し、ここを居城としていた。文明9年(1477年)、豊島勘解由左衛門尉泰経の代に、長尾景春が管領上杉顕定に対して謀反を起こし、武蔵国・相模国の同志と共謀して挙兵した。この時、当城主・泰経と平塚城主でその弟、平左衛門尉泰明と共に景春(の挙兵)に応じ、江戸と川越の通路を断った。そこで江戸城にいた扇谷上杉定正の家臣・太田道灌が兵を率いて平塚城を攻め、城下に火を放つという知らせを受け、泰経は直ちに平塚城を救おうと、当城と練馬城の兵を率いて急行した。その途中、江古田ヶ原沼袋で太田の軍勢と遭遇して激戦となり、数刻後、ついに泰明と板橋赤塚の一族150名余りが討死した。太田勢は時を移さず、練馬城及び当城に攻め入ったので、豊島勢は善戦したのだが、衆寡敵せず、城はついに陥落した。時に文明9年4月18日のことである。
時は流れて500年後、天地の悠久に較べれば人の一生などカゲロウのようなもので、勢力の興隆や滅亡も夢のようなものである。当時のことを振り返る者は少しもなく、年月の経過に伴ってこの郷土の貴重な史跡が忘れられてゆくのを惜しみ、このことを堅い石に刻んで後世に伝える。
社団法人 石神井風致協会建
昭和12年6月 田中酉蔵撰文
(裏)
昭和12年6月 寄付者 田中酉蔵
※3.三宝寺池。
碑文は句読点がなく、平仮名の「に」に変体仮名が用いられるなど、現代人には少々とっつきにくいところがあります。又、これを読む上で歴史の知識はある程度必要でしょう。
現代語訳に際しては、適宜句読点を補い、多少なりともわかりやすくなるよう心がけました。
それから、碑文の表側の最後の方に※を付けた漢字が2つありますが、手許の漢和辞典(旺文社)にはいずれも載っていませんでした。そこで前後の文脈などから意味を類推しました。
さて、歴史についても少々述べさせていただきます。
この碑文に出てくる文明9年(1477年)は戦国時代初期で、この年に応仁の乱が終結しています。一方関東では関東公方が古河(こが)公方と堀越(ほりこし)公方に、関東管領は山内(やまのうち)上杉と扇谷(おうぎがやつ)上杉とに分かれ…と、詳細は省きますが、内戦の時代にふさわしい不安定な情勢でした。そんな中でこの石碑に書かれた戦争(長尾景春の乱)が起こるのですが、これが鎮圧された後も享徳の乱が起こるなど情勢不安は続き、この石碑の登場人物たちのその後もロクなもんじゃない(例:太田道灌は主君の上杉定正に謀殺された)。
【関連記事】
石神井城址とこの記念碑についての碑(石神井公園)
« トランプにうんざり?(2020年、アメリカ) | トップページ | トランプはフォックス・ニュースをフェイクニュースと呼ぶ(2020年、アメリカ) »
「書評(歴史)」カテゴリの記事
- 『北多摩縄文スタンプラリー』(2024.09.04)
- 手づくり郷土賞の碑(深大寺水車館)(2024.09.02)
- 馬頭観音供養塔(滄浪泉園)(2024.09.01)
- 手づくり郷土賞の碑(お鷹の道)(2024.08.31)
- 国分寺市観光協会設立10周年記念の碑(真姿の池湧水群)(2024.08.30)
« トランプにうんざり?(2020年、アメリカ) | トップページ | トランプはフォックス・ニュースをフェイクニュースと呼ぶ(2020年、アメリカ) »
コメント