勝海舟夫妻墓の傍の石碑
東京都大田区の洗足池の畔に勝海舟夫妻の墓が建っているのですが、その傍には江戸無血開城を顕彰する石碑が建立されています。
今回私は、この石碑を解読してみました。尚、引用に際しては旧字体を新字体に変えるなど、一部表記を改めました。
慶応三年十二月 王政古ニ復シ翌明治元年二月大総督熾仁親王(※1)勅ヲ奉シ 錦旗東征セラレ三月十五日ヲ期シテ江戸城ヲ攻メシム城兵決死一戦セントシ兵火将ニ全都ニ及ハントス時ニ勝安芳(※2)幕府ノ陸軍総裁タリ時勢ヲ明察シテ幕議ヲ帰一セシメ十四日大総督府参謀西郷隆盛ト高輪ノ薩藩邸ニ会商シテ開城ノ議ヲ決シ四月十一日江戸城ノ授受ヲ了セリ都下八百八街数十萬 生霊(※3)因テ兵禍ヲ免ガレ江戸ハ東京ト改称セラレテ 車駕此ニ幸シ(※4)爾来 三朝(※5)ノ帝都トシテ殷盛比ナシ是レ一ニ隆盛安芳ノ両雄互ニ胸襟ヲ披キテ邦家百年ノ大計ヲ定メタルノ賜ナリ今ヤ東亜大有為ノ秋(※6)ニ方リ当年両雄ノ心事高潔ニシテ識見卓抜ナリシヲ追慕シ景仰(※7)ノ情切ナリ茲ニ奠都(※8)七十年ニ際シ両雄 英績ヲ貞石(※9)ニ勒シテ之ヲ顕彰シ永ク後昆(※10)ニ伝フ
昭和十四年四月
東京市長従三位勲一等小橋一太謹識
※1.有栖川宮熾仁親王。
※2.勝海舟。安房守だったので勝安房ともいう。
※3.人民。
※4.誰の車駕かは書いてないが、「幸」(みゆき)の字を用いていることから天皇とわかる。
※5.明治・大正・昭和。
※6.後述。
※7.徳を仰ぎ慕う。
※8.都を定める。
※9.堅い石。
※10.後の世の人々。
続いて現代語訳をどうぞ。
【拙訳】
慶応三年十二月、王政復古となり、翌明治元年二月に大総督・有栖川宮熾仁親王は勅命を奉じ、錦の御旗を掲げて東征され、三月十五日に江戸城を攻めることにした。江戸城の兵らは決死の覚悟で戦おうとしていて、戦火は今まさに江戸中に広がろうとしていた。
その時、勝海舟は幕府の陸軍総裁だった。彼は時勢が官軍にあると見抜いて幕府内の意見を集約し、十四日に大総督府参謀・西郷隆盛と高輪の薩摩藩邸で会合して開城の合意をし、四月十一日に江戸城の受け渡しが完了した。
城下の八百八町、数十万の人民は、これにより戦禍を免れ、江戸は東京と改称され、天皇がこの地に行幸され、それ以来、三代に渡って首都としてかつてないほど繁栄した。これは一つに、隆盛と海舟の両雄が互いに胸襟を開いて国家百年の大計を定めてくれたおかげである。
今、東アジアは大変な時期を迎えている。両雄の心が高潔で見識がとても優れていたことを追慕し、その徳を切に仰ぎ慕う。ここに遷都七十周年に際し、両雄の優れた功績を堅い石に刻んでこれを顕彰し、長く後の世の人々に伝える。
昭和十四年四月
東京市長従三位勲一等小橋一太謹んで記す
さて、銘文の中に「今ヤ東亜大有為ノ秋(とき)」とありますが、これは一体どういうことでしょうか? 碑文には「昭和十四年四月」とありますが、この時期は日中戦争の真っ最中であり、「東亜大有為」とは日中戦争を指すものと思われます。だとすると、この顕彰は戦時プロパガンダ臭がしますな。もちろん、こんなプロパガンダがあろうとなかろうと、江戸無血開城の英断は評価されて然るべきです。
ところで、昭和14年を西暦に換算すると、1939年。ここで私はピンと来ましたよ、この年の9月に第二次世界大戦が勃発したんだと。こうなるともう、無血開城なんてハナシどころじゃなくなってきます。
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