菊地明『新選組 粛清の組織論』文藝春秋
本書によると、新選組の前身である壬生浪士組の結成から鳥羽・伏見の戦いの直前までに、新選組が殺した外部の敵は26人。それに対して粛清されたのは40人とのこと。
外敵の殺害……26人
内部の粛清……40人
闘死………………7人
病死………………3人
新選組には粛清が多かったことは知っていましたが、こうして改めて数字を出されると、新選組は外部に対してのみならず内部に対しても恐ろしい組織だったことがわかります。
なぜこうなってしまったのか? その理由の一つとして、本書ではこう述べています。長くなりますが引用します。
幕臣や藩士という正規の武士であれば、切腹や斬首という死罪のほかに、所領や家禄・屋敷を没収する改易、終身の謹慎である永蟄居、出仕・外出を禁じる蟄居、ほかに閉門や逼塞、遠慮、隠居、差控などの罪に応じた刑罰がある。しかし、死罪以外にこれらが成立するには、身分があり、守るべき代々の家があってのことだ。
ところが、隊士たちは身一つで入隊しているため、そこに守るべき代々の家や名誉はない。つまり、“担保”がないのだ。担保となるのは己の命だけなのである。もちろん、新選組にも謹慎や追放などの処分はあったが、それで済まない刑罰は死罪のほかにない。そのため、隊規に背けば切腹が課せられたのである。(P139)
新選組の隊士の命はそれだけ軽かったんですかね。
あるいは、幕臣や藩士などは身分や家柄などを担保とすることで死罪を回避するという知恵を構築していたのだとも言えます。新選組にはそれに代わる知恵を構築する時間などなかっただろうし、その余裕もなかったのでしょう。
【参考文献】
菊地明『新選組 粛清の組織論』文藝春秋
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